後世に歪められる前のブッダの仏教に関心がある者にとって重要な一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3214)】
ルリビタキの雄の若鳥と思われる個体(写真1、2)、イカルチドリ(写真3~5)、シロハラ(写真6、7)、ツグミ(写真8)、バン(写真9、10)、羽を乾かすカワウ(写真11、12)をカメラに収めました。
閑話休題、『超訳 仏陀の言葉』(白取春彦著、幻冬舎)の著者の厳しい現代日本の仏教批判に溜飲が下がりました。
「日本で仏教と呼ばれているものはゴータマ(ブッダ)の教えた通りの仏教ではない。日本仏教、あるいは日本の仏教僧侶たちが行っていることは、仏教の名を借り、理由をつけて増やした宗教的に見える行事のたびに領収書のいらない多額の金銭を巻き上げる特殊な商売にすぎない。本来の仏教ならば、僧侶は悟るための瞑想方法を伝えなければならない。しかし、彼らはそういうことはまったくしないし、商売などゴータマが禁じたことにのみ精を出している。ゴータマが悪人と呼んだ人々に相当するだろう」。
「(歴史的には)権力者や貴族らがつごうよく生きていくための呪文祈祷の役割として仏教が用いられたわけだった。もちろん、禅のごく一部には本来の悟りを目指す僧侶たちもいたのだが、しょせん暴力と略奪と殺人で成り上がった集団にすぎない権力者や役人たちが、仏教のそのような本質を理解できるわけもなかった」。
「また、仏像はゴータマの姿を反映していない。あれは古代バラモン教の僧侶階級の姿である。祭儀の方法や考え方において、現代でもっともバラモン教に近いのは日本仏教である。ゴータマ・シッダールタの仏教とはかけ離れている」。
「仏教は中国でも誤解されていた。その一つは、ブッダは不老不死をもたらす金色の神だと信じられていたことだ。古代中国の権力者や富裕階級は、いつまでも安楽に贅を尽くした生活をしたいと願っていたからである。仙人の長命さに憧れていた彼らが勝手に不老不死をでっちあげたのではなく、確かにブッダの残した言葉の中には『不老不死』なるものがある。しかしこれは、物理的に老化せず、死ぬこともないという意味ではまったくない。いっさいが無であり分け隔てすらないということを瞑想によって体得すれば老いや死など意に介さなくなる、というのが悟った者に共通した実感だということを述べるために『不老不死』という表現が便宜的に比喩として使われただけである。・・・輪廻も同じで、物理的な生まれ変わりを意味してはいない。行為の連鎖や、思い込みによる堂々巡りだけを指している。しかし、そういったものを字面のままに受け取って神秘化した書物や教えがはびこってきたのも事実である。要するに、仏教は正しく理解されてこなかったのである」。この指摘には、目から鱗が落ちました。
「ゴータマ・シッダールタの仏教は宗教ではなく、身体を使った認識哲学に近いものであろう。世間一般では、仏の教えを信じる、仏が自分を救ってくれるものだと信じるのが仏教だとされている。しかし仏の教えを信じたところで、瞑想と生き方を変える実践がなければ何の自己変化もありえない。そのことをゴータマは幾度もくり返し教えている。あまつさえ、『信仰すら捨てよ』と言っているのだ。また、仏が人々を救ってくれるのではなく、仏は今の苦しみからの救いの道を示すだけである。本人がその道をたどってみなければ、何も起きはしない。これら仏教の特徴をかんがみれば、やはり宗教よりも実践哲学というべきものだろう。仏像を拝んだところで、苦しみは変わらないし、救われもしないのである」。
「ゴータマの仏教において瞑想や人間性の変化はもっとも重要なことなのに、日本仏教では少しもクロースアップされていない。僧侶たちがそれを知らないし、関心がないからであろう。したがって、僧侶たちは悟りを曖昧な神秘にして遠くに置いてきただけである。だから、彼らは本書にも収録した『悟りに達すれば、<わたし>という観念がなくなる』ということがわからないだろうし、経験もしていないであろう。しかし宗教を問わず、瞑想によって、あるいは困難の克服によって、誰もがゴータマが説いていた境地を体験できるのである」。
「最後にもう一つ加えておく。ゴータマ・シッダールタの革新性についてだ。当時はカースト制が徹底されていて、出自による身分、職業、交遊、生活圏などが厳しく決まっていた。そんな時代にゴータマは平等を説いたのである。従来の身分や社会階層などに関係がなく、人は行いによって評されるとしたのだ。つまり、ゴータマの説いた人間平等は世をひっくり返すようなことだったのだ。ゴータマがそのような平等を説いたのは、もちろん悟りの境地で体験するあの透明性、人間と世界が融合して、いっさいが同じくなるという境地を経験していたからだった」。
●あるがままに生き、あるがままに死ぬ。
●智慧ある老人になる方法。「おまえが歳をとるのならば、そのときには誠実で、人格があり、悲しみに溢れ、何をしても他人をそこなうことなく、また慎み深く、身と心がいつもととのった、そういう人になるように」。
●悪口も、ほめ言葉も。「他人が悪口をつげても、揺らがないように。また、たとえ他人からほめられたとしても、心を揺らしたり、高ぶったりしないように。慢心がおまえをたちまちに濁らせる」。
●生まれ、善をなし、死ぬ。「善をなせ。わたしたちは人として生まれ、人として死ぬ。その間に、善をなせ」。
●悲しみを超える。「人の命は定めようがない。長く生きるか、短命に終わるか、誰も知る由がない。そして、若くあろうが老いていようが、賢い人であろうが愚か人であろうが、誰もがみな最後は死に至る。だから、いくら嘆き悲しんでも死者は生き返らない。死者にわたしたちの手が及ぶことはない。したがって、いつまでも泣くのは無益である。それどころか、かえって我が身をやつれさせることになる、悲嘆はまた、愛執と憂いという煩悩である。その煩悩の矢を自分の手で抜き去れ。すなわち、悲嘆を超え、心の安らぎに達せよ」。
●死は必然。「いったん生を受けた者は死ななければならない。陶工の手から生まれた土の器が壊れるように。果実が熟して、樹から落ちるように」。
●死は不思議ではない。「誰かが死ぬと、慟哭する者たちよ。なぜ死んだのだと天に問い続ける者たちよ。死を最大の災厄のように思う者たちよ。人間が死ぬのはまったく不思議なことではない」。
●決して怒りを返さず。「自分に対して怒ってくる人に、こちらから怒りを返してはならない。怒った人に怒らず、かえって静かにしているのは、悪をそれ以上増やさないことになる。それは、自分のためにも、怒っている人のためにもなることだ。いわば、彼と自分のために治療のようなものだ。それなのに、世間の人は理解できない。怒り返すのが当然だと思い、怒らないのは愚かだとさえ思うものだ」。
●老人の悲しみ。「学ぶことが少ないのならば、牛のように老いてしまう。肉ばかりが増え、智慧が増えない。そういう老人になりたいのか。笑いも少なく、喜びがなく、物事がわからず、明かりすら求めない老人。病を引きずり、くだらぬ欲望をまだ持ち、それでいてふらついている老人。容色が衰え、心が腐り、ごまかしばかりの老人」。
●自己を楽しめ。「外に楽しみを求めるから、自分のことがおろそかになる。外に楽しみを求めるから、いつまでも自分の存在を楽しむことができないようになる。自己を楽しめ。自分の変化と成長を楽しめ。もう、外に楽しみを追うな。人生は短いものだ。外にある安易な楽しみで今をごまかさず、今から真剣に自分を育め」。
●人への怒りは災いを呼ぶ。「人に対して怒るな。自分のほうが正しいと思いこんで、誰かをそしるな。人に腹を立て、その人が愚かだとか悪意に満ちているとか吹聴するな。そんなことをすると、自分で災いを呼びよせてしまう。あたかも、強い風に向かって塵を投げつけたときのように自分に不快なことが戻ってくる」。
●棄てることから、すべてが始まる。
●人を憎む心が不運を呼ぶ。「不運から脱せよ。不運はどこから来るのか。・・・人を憎むとき、あるいは、自分をののしり憎むとき、不運は忽然と現れ、その激流で押し流すのだ」。
●勝ち負けを棄てる。「この世には怨みを胸に抱く人々がいる。深い悩みを胸に、果てしない欲望を胸に抱く人々がいる。彼らは、誰々が勝った負けたと口々に言う。そのとき、勝利からは多くの怨みが生まれ、敗戦からは苦しみが生まれる。わたしたちは、そんな勝ち負けなど棄て去ろう。そして、呻き苦しむ人々の間にあっても、わたしたちは楽しく生きよう。安らぎに包まれて楽しく暮らしていこう」。
●今すぐに、外へと出よ。「悩み苦しむことはもうやめようではないか。一つの悩みが終われば、次にはあらたな悩みが戸口に立っている。そのような終わることのない苦しさの輪廻から、もう脱しようではないか。悩み苦しむことは、家の中にずっと閉じ籠もっているようなものだ。・・・悩み、わが身をさいなむことをやめ、とにかく外へ出よ。来週ではない。明日ではない。今すぐに外へと出よ。そして、自分がなすべきことをなすのだ。そのときに、おまえの悩み苦しみはたちどころに消え去る。悩みの輪廻からついに脱することができるのだ」。
後世に歪められる前のブッダの仏教に関心がある私にとって、重要な一冊になりました。