二重らせんの真実に最初に辿り着いた女――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その28)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(115)
●『二重らせん』(ジェームズ・ワトソン著、江上不二夫・中村桂子訳、講談社文庫)
●「二重螺旋の発見――科学者の性格と業績」(篠原兵庫著、日本医事新報社の「日本医事新報」No.3343~No.3348に連載)
●『熱き探究の日々――DNA二重らせん発見者の記録』(フランシス・クリック著、中村桂子訳、ティビーエス・ブリタニカ)
●『ダークレディと呼ばれて――二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実』(ブレンダ・マドックス著、福岡伸一監訳、鹿田昌美訳、化学同人)
●『二重らせん 第三の男』(モーリス・ウィルキンズ著、長野敬・丸山敬訳、岩波書店)
●『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一著、講談社現代新書)
【分子生物学の幕開け】
科学専門誌「ネイチャー」1953年4月25日号に1ページ余りのごく短い論文が掲載された。そこには、DNAが互いに逆方向に結びついたらせん状の2本のリボンから成っていること、すなわち、二重らせん構造をしていることが示されていた。論文の共同執筆者、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによって分子生物学時代の幕が切って落とされた瞬間であった。
【ワトソンとクリックの犯罪】
この掲載に先立つ1953年2月上旬、世界中の研究者がDNAの構造を解明すべく、激しい競争に明け暮れていた。24歳のワトソンと36歳のクリックも、野心を燃やし、演繹的アプローチ(一般的な前提から、経験に頼らずに論理によって個別の結論を導き出す方法)によってDNA構造に迫ろうとしていたが、思考を飛躍的に推し進めるデータや観測事実が欠けており、焦慮していた。
一方、32歳のロザリンド・フランクリン(1920~1958)は、女性、ユダヤ人という当時のハンディキャップを乗り越え、個々のデータと観察事実を地道に積み上げていく帰納的アプローチ(個々の具体的な事実から共通点を探り、そこから一般的な原理や法則を導き出す方法)でDNAの構造解明を目指していた。
当時、フランクリンは職場の先輩、モーリス・ウィルキンズと衝突を繰り返しており、その半面、ウィルキンズはワトソン、クリックとは友好関係にあるという背景の中で、事件が発生するのである。ウィルキンズがフランクリンの撮影したDNAの三次元形態を示すX線写真を密かに複写したものを、ワトソンにこっそり見せてしまったのだ。ワトソンの自伝『二重らせん』には、「その写真を見たとたん、私は唖然として胸が早鐘のように高鳴るのを覚えた。・・・写真の中で一番印象的な黒い十字の反射は、らせん構造からしか生じ得ないものだった」と書かれている。データを横流しした悪役として描かれているウィルキンズは、その自伝『二重らせん 第三の男』で見え透いた言い訳をし、クリックは自伝『熱き探究の日々』の中で、「私のほうは当時、その写真を見たことがなかったのだ」と嘯いている。
ところが、これにとどまらず、クリックは2月中旬に、フランクリンが全く与り知らぬ間に、DNAに関する彼女のデータを覗き見していたのだ。というのは、フランクリンが研究資金の提供を受けていた英国医学研究機構に提出を義務づけられていた研究報告書を、クリックは審査委員のマックス・ペルーツから入手して見ることができたのである。「この報告書はワトソンとクリックにとってありえないほど貴重な意味をもつ文書だった。そこには生データだけでなく、フランクリン自身の手による測定数値や解釈も書き込まれていた。つまり彼らは交戦国の暗号解読表を入手したのも同然だったのである」、「おそらく、ワトソンとクリックはこの報告書を前にして、初めて自分たちのモデルの正しさを確信できたのだ。すぐに彼らは論文を『ネイチャー』誌に送った」と、ライヴァル研究者のアンフェアなルール違反に対する福岡伸一の告発は手厳しい。
篠原兵庫は、「(ワトソンの)『二重螺旋』を読んだのち、ワトソンとフランクリンの2人を知っていた者は、みなフランクリンの擁護に回った。ワトソンの書いたのが真実だった、と言う者はついに現われなかった。どうみても、これは単なる判官贔屓ではない」、「ワトソンが一目見て『螺旋だ』と気づいたことを、専門家のフランクリンが気づかぬはずはない。事実、彼女のノートにはB型が螺旋構造をとっていることを明確に書き残してあった」と述べている。そして、「もしもワトソンが次のような趣旨の本を書いていたら、話は全く別になっていたに違いない。『私の発見はフランクリンの写真がなければ不可能であった。彼女に断りもせず写真を手に入れて抜け駆けをしてしまった。今から考えると若気の至りであり、彼女に対して誠に済まないことをしたと思う。彼女はみごとなX線回折写真を撮ったばかりでなく、B型が螺旋構造をとっていることや燐酸が外側に位置していることなどを正しく指摘していた。彼女は世紀の大発見のゴール寸前に到達していたのである』。ところが、ワトソンはこんなおおらかな本を書くような性格を持ち合せていなかった」と、辛辣である。
【ノーベル賞の光と陰】
1962年の暮れ、ノーベル賞授賞式の檀上には、生理学・医学賞のワトソン、クリック、ウィルキンズと、化学賞のペルーツの輝くばかりの晴れ姿があった。福岡の表現を借りれば、「ある意味で『共犯者たち』がその場所にそろったのである」。最も重要な寄与をしたフランクリンは、彼らの犯罪を知ることなく、4年前の1958年4月、卵巣がんに侵され37歳でこの世を去っていた。X線を無防備に浴び過ぎたことが、彼女の早過ぎる死に繋がったのではないかといわれている。
【フランクリンとウィルキンズの関係】
同僚や知人たちから、「落ち着いた用心深い黒い瞳、地味な美しい顔立ち」、「凄く魅力的で、凄く聡明、凄く短気で、凄く頑固」、「いつも単刀直入に要点に入り、社交辞令はほとんどない」、「打ち解けにくい」、「口下手」などと評されているフランクリンは、こと研究においては、「まさに超一級の、優秀で、鋭い分析力」を持ち、「真剣で」、「集中力と燃えるようなひたむきさがあり、本物の洞察力」を備えていた。ただし、年上の同僚・ウィルキンズの研究者としての能力は全く評価していなかった。一方、目障りな敵が間もなく去ることに心を弾ませたウィルキンズは、「興味がおありかと思い、お伝えします。かのダーク・レディは、来週、我々のもとを去る予定です」と、クリックに手紙で書き送っているのだ。