『源氏物語』は、紫式部の貴族社会告発の書であった・・・【山椒読書論(20)】
長いこと、私が『源氏物語』に惹かれてきて、現在も熱が冷めないのは、そのストーリーが興味深いことは言うまでもないが、なぜ紫式部はこの長編小説を書いたのか、その理由を知りたいという思いが強く、未だ納得のいく回答が得られていないからである。
『「うそ」で読み解く源氏物語』(田中宗孝著、幻冬舎ルネッサンス新書)は、この問いに対し魅力的な回答を提示してくれている。「紫式部は、貴族社会と戦うために筆を執った」という仮説は、その発想が大胆なこと、示されている証明方法が論理的であることで、類書を圧倒しており、非常に刺激的である。
著者の結論は、「源氏物語は、宗教界を含む貴族社会の病理現象(腐敗・堕落)を描出してこれを批判するとともに、その中で人はいかに生きるべきかを追究した物語」というものである。
この仮説の論拠として、主人公・光源氏の「うそ」が暴かれる。光源氏の最大の「うそ」は、彼を溺愛した父・桐壺帝の女御(にょうご)である藤壺との密通によって誕生した御子が桐壺帝の御子であるとして東宮となり、さらに冷泉帝として帝(みかど)の位に即いたことである。さらに、光源氏の言動には、常に「うそ」が見え隠れし、心にもない甘い言葉を囁いて、女性たちの心を揺さぶり、その挙句に女性たちに苦悩をもたらした、と手厳しい。
ヒロイン・紫の上が、「女性ほど、身の処し方が窮屈で難しいものはない。物事の善悪をわきまえているのに、心の内だけにとどめて黙して語らないのも、かいのないことだ。女性としては、どのような生き方をすればよいのだろうか」と思い惑う場面があるが、「これは、紫式部自身への問いかけであり、答えは、源氏物語を書くことだっただろう」と、著者はコメントしている。
「紫式部は、光源氏の肩をもってはいない。理想的な男性であるように見える光源氏は、その人間性に重大な欠陥があったがゆえに、あわれなる末路を迎えた。また、その人間性を見極めることなく外見だけにとらわれて、このような男性に心身をささげた女性は、悩み苦しまなければならなかった。紫式部は、そのありさまを如実に描出したかったのではないか。光源氏の虚像と実像との落差をより鮮明にすることを意図して、光源氏の外見を輝くばかりに飾りたてたのではないか」というのだ、しかし、この「紫式部の戦いは、危険に満ちたものであった。源氏物語が貴族社会の腐敗と堕落を告発する書であることが、藤原道長ら時の権力者に覚られた場合には、当然、権力者の忌諱に触れることになるだろう。もしそうなったら、もはや物語を描き続けることができなくなるだけでなく、紫式部の一族は、社会的にも経済的にも相当の制裁を受ける恐れがある。だから、物語の真の意図が容易に理解されることのないよう、細心の注意を払う必要があった。源氏物語が、外見上、絢爛豪華な絵巻物に見えたり、恋愛小説であるかのように見えたりするのは、このような理由による」という著者の主張は、説得力十分である。