大伴旅人の大宰府下向は左遷ではなかった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3349)】
長年、出会いたいと切望してきたアカスジカメムシ(写真1~4)を、昆虫に造詣の深い和田猛さんのサポートを得て、交尾まで撮影することができ、昆虫老年の榎戸、感激! ウチワヤンマ(写真5、6)、キタテハ(写真7)、オオミズアオ(写真8)、カルガモの雌と8羽の雛(写真9~12)、サシバの雌と3羽の雛(写真13~17)をカメラに収めました。ハスが蕾を付けています(写真18)。マンネンタケ(別名:レイシ。写真19)が生えています。因みに、本日の歩数は13,931でした。
閑話休題、『上代文学史を学ぶ』(梶川信行著、翰林書房)で、個人的にとりわけ興味深いのは、●『古事記』は誰に読ませるものだったのか、●『日本書紀』の記述は正しいのか、●大伴旅人の大宰府下向は左遷か、●『万葉集』は平安時代の人に読めたのか、●『万葉集』や『日本霊異記』はなぜ雄略天皇から始まっているのか――の5つです。
●『古事記』は誰に読ませるものだったのか
太安萬侶が記した『古事記』は一冊しかありませんでした。誰に読ませるものだったのかは、『古事記』の序文を見れば明らかだというのです。「臣安萬侶言す」と始まり、「臣安萬侶、誠惶誠恐み、頓首頓首す 和銅五年正月廿八日」と締めくくられています。『古事記』は、和銅5年の時の天皇・元明天皇に献上されたものだったのです。
●『日本書紀』の7世紀の記述は正しいのか
考古学的な調査によって、『日本書紀』の記述の正しさが裏づけられています。とりわけ7世紀の記事に関しては正確であるという報告が多いのです。
●大伴旅人の大宰府下向は左遷か
現在の地名は福岡県「太」宰府市だが、古代の役所名は「大」宰府です。大伴旅人の大宰府下向を左遷と見る研究者が多いが、著者・梶川信行はそう考えていません。大伴旅人のポストは実権のある大宰府の長官でした。大伴氏は国防の拠点でもあった北九州に赴任するにふさわしい氏族だったというのです。因みに、菅原道真の大宰府下向は、権帥という何の権限もないポストだったので、明らかな左遷と分かります。
●『万葉集』は平安時代の人に読めたのか
平安時代には既に、全て漢字で書かれた『万葉集』はほとんど読めなくなっていました。そこで、漢字にフリガナをつける作業が始まりました。10世紀半ばのことです。
●『万葉集』や『日本霊異記』はなぜ雄略天皇から始まっているのか
『古事記』や『日本書紀』が神武天皇を初代の天皇としているのに対し、『万葉集』や『日本霊異記』は雄略天皇から始まっています。神武天皇は天皇家が創り出した実在しない人物だったが、一方、後に雄略と謚(おくりな)される大王が5世紀後半に関東から九州までを版図としていたという歴史的事実があったからです。記紀が成立するよりも古い時代から、天皇家以外の氏族の間で雄略天皇を起源とする歴史が伝えられていたと考えられるのです。