モンテーニュは快楽主義者だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3467)】
本日も読書に集中。
閑話休題、私はミシェル・ド・モンテーニュも『エセー』も大好きでいろいろ読み漁ってきたが、このたび手にした『生きるということ――モンテーニュとの対話』(海老坂武著、みすず書房)には驚かされました。
驚きの第1は、何人かの伝記作者がモンテーニュの妻フランソワーズとモンテーニュの弟アルノーとの不倫関係を疑っていること。
興味深いのは、モンテーニュが『エセー』の中で、好奇心は疫病神と述べていることです。嫉妬から妻の不貞を突き止めようとする夫の好奇心は危険であり、病でさえある、嫉妬は恥の上塗りで、事柄が世間に広まり、子供たちをも傷つける、証拠を捜して事実を突き止めたらどうなるか、というのです。
この妻フランソワーズとは、彼女の7000リーブル(15億円以上)という高額な持参金目当ての結婚だったことが示唆されています。モンテーニュは結婚をどうやら悔やんでおり、自分は他人の言うなりになって、「いやで仕方がなかったのに」外的動機から結婚してしまったとぼやいているからです。
第2は、モンテーニュは快楽主義者だったということ。
モンテーニュは、快楽こそ人生の目的だと明言しています。では、モンテーニュは何を快楽と考えていたのでしょうか。書物との付き合い、学問、旅、狩猟、恋、セックス、酒、食といった快楽が挙げられています。とりわけ、恋を語る快楽、女性との付き合いが強調されています。<あのかよわい優しさや、初々しいばかりの羞恥心を取り乱させて、放蕩へと誘い、堂々と、プライドにみちたいかめしさを、こちらの情熱の思うがままにしてしまうことは、男にとっては単に快楽にとどまらず、名誉でもあるのだ>と、男の欲望剥き出しです。
第3は、モンテーニュはキリスト教徒であるから神を信じているはずだが、本当のところは、死後は無になると思っていたのではないかと著者が述べていること。
『エセー』に聖書からの引用が1箇所か2箇所しかないこと、モンテーニュが第2巻第6章で人間存在の「無」について語っていることを証拠として挙げています。
「モンテーニュのすばらしさは、このように、人生が風であることを知りながら、そしておそらくは『無』であることを知りながら、それでも最後まで、快楽を語り、生きることを愛していることである。生活習慣の中にある肉体的快楽を手放すな、食卓にあるときは学問的思念よりも食べることに専念せよ、散策しているときは散策している幸福にひたれ、と」という結びの言葉に、大きく頷いてしまいました。
生きることを十分に楽しめと言う、人間的な、あまりにも人間的なモンテーニュに親しみを感じてしまったのは、私だけでしょうか。