織田信長は、兵士たちに略奪を禁じた唯一の戦国大名だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3482)】
アキアカネ(写真1、2)、カキの枝にびっしり付いているルビーロウカイガラムシ(写真3)をカメラに収めました。
閑話休題、『逆説の日本史(28)――大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎』(井沢元彦著、小学館)から、多くのことを学ぶことができました。
●藤原氏に仕えていた紫式部が「ライバルの源氏が勝つ」物語を書いても非難されるどころか賞賛された。
●「二流」の政治家・山県有朋ですら、児玉源太郎が提案した「満洲植民地化路線」には反対した。
●「第二教育勅語」の「追加」、大日本帝国憲法の「改正」という形で日本を変えようとしていた西園寺公望は、その最大の後ろ盾である伊藤博文と明治天皇を相次いで失ってしまったため、断念せざるを得なかった。
●「帝人事件」は「でっち上げと証拠隠滅の名人」平沼麒一郎の仕業だ。
●「陸軍の暴走で大日本帝国は崩壊した」というのは、あまりに表層的な見方だ。その背景には、明らかに民衆の熱い支持があったのだ。
●大正政変あたりから日本の新聞は国民の「耳目」という本来の役割を完全に忘れ、「アジテーター(扇動家)」として活動するようになってしまった。
●戦国時代、戦争に勝った側の兵士は侵入した敵地では略奪も強姦もし放題だった。これを「乱妨取り(乱取り)」といい、そういう余禄があるから原則的には無給の兵士らも一所懸命戦ったのである。しかし、唯一織田信長だけが商業を盛んにすることによって兵士に給料を払った。だから、初めて上洛した兵士たちに略奪を厳禁することもできた。それゆえ信長は他の大名と違って、天下の人々から信頼を得ることができたのだ。
●山県有朋は軍国主義化路線の巨頭と見做されているが、中国(袁世凱)やロシアとは対立すべきではなく、友好関係を確立すべきだと言っていた。
いつものことながら、井沢元彦には教えられることが多いですね!