アイルランド人の『百人一首』愛に脱帽・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3526)】
オナガガモの雄(写真1、2)、マガモの雄と雌(写真3)、雄(写真4)、雌(写真5)をカメラに収めました。撮影助手(女房)が体長3.5mmほどのキイロテントウ(写真6)を見つけました。ラクウショウとモミジバフウが紅葉しています(写真8)。イロハモミジ(写真9、10)が紅葉、イチョウ(写真9、11、12)が黄葉しています。因みに、本日の歩数は11,254でした。
閑話休題、アイルランド人の百人一首愛に脱帽! 『謎とき百人一首――和歌から見える日本文化のふしぎ』(ピーター・J・マクミラン著、新潮選書)は、アイルランド生まれの翻訳家・日本文学研究者・詩人の手になる『百人一首』についての百問百答です。
とりわけ興味深いのは、「後鳥羽院の歌が『百人一首』に入選したのはなぜか?」、「『あはれ』はいかに訳すべきか?」、「『後朝』のルールは守られたのか?」――の3問です。
●後鳥羽院の歌が『百人一首』に入選したのはなぜか?
<人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑにもの思ふ身は――後鳥羽院>=人が愛しく思われ、また恨めしくも思われることだ。つまらなくこの世の中を思うために、いろいろと物想いをする私は。
実は、近年の研究では『百人一首』は藤原定家が選んだものではないと考えられている。じつは定家が選んだのは、『百人一首』と97%が重複する『百人秀歌』という秀歌撰とされており、そこには後鳥羽院とその子・順徳院の歌が入っていない――と衝撃的なことが記されています。
鎌倉時代末から南北朝時代の歌人・頓阿に、『百人一首』に後鳥羽院と順徳院の歌を入れることで、定家と後鳥羽院が対立していたイメージを和らげ、定家が後鳥羽院の歌を認めていたと見せる意図があったと考えられているというのです。
●「あはれ」はいかに訳すべきか?
<あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな――謙徳公(藤原伊尹)>
=わたくしのことを「あはれ」と同情してくれそうな人は、誰も思い浮かべられないで、わたくしは思い焦がれながら、きっとむなしく死んでしまうことでしょうね。
「あはれ」は優美で情緒ある様子への感動や、哀愁のある事柄への同情を表す語である。他者と分かち合う共感が「あはれ」である――と解説されています。
●「後朝」のルールは守られたのか?
<あひみての後の心にくらぶれば 昔は物を思はざりけり――権中納言敦忠(藤原敦忠)>=逢って契りを結んだあとの、この恋しく切ない思いに比べると、逢う前の物思いなんて何も思っていない程度の、なんでもないものであることだ。
平安時代の貴族は、男性が女性のもとを訪れる「通い婚」や「妻問い婚」と呼ばれる結婚形態が最も一般的だった。妻問いは、日没後に男性が密かに女性のもとを訪れ、夜明け前に帰ることから始まる。それを三日続け、三日目に訪れた際には、男性は夜が明けるまで女性の家で過ごし、そのまま女性の両親と食事を共にし、自分の姿を露わにする「所顕(ところあらわし)」の儀式が行われた。この所顕までの三日間、男性は帰宅後すぐに女性宛てに後朝(きぬぎぬ)の歌を贈ることが重要で、万が一男性が三夜続けて女性のもとを訪れなければ、二人の関係は終了したとみなされてしまう。正式な結婚には、後朝の歌が欠かせなかったのである――と言われると、結構面倒臭いルールだなと思いながらも、三日間のお試し期間というのは案外合理的かもと頷いてしまった私。