榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

難解な道元が身近に感じられる稀有な本・・・【山椒読書論(135)】

【amazon 『道元の読み方』 カスタマーレビュー 2013年2月8日】 山椒読書論(135)

はっきり言って、道元の哲学は難解である。これまで何度も挑戦してきたが、その都度、跳ね返されてきた。

ところが、『道元の読み方――今を生き切る哲学――「正法眼蔵』(栗田勇著、祥伝社黄金文庫)は、道元の言っていることが、すっと心の中に入ってくるので、びっくりするやら、嬉しいやら。この栗田勇という著者は、只者ではない。道元は、最初に意表を衝く表現で結論をずばりと示しておいて、それを解説していくスタイルを取っているので理解しにくかったのだ、ということに気づかされたのである。そして、道元は、釈迦→迦葉(かしょう)→達磨(だるま)→如浄(にょじょう)→道元と、仏教の正統な教えを受け継いでいるという自信と信念を持っていたので、その考え方は独特かつ飛躍的で、烈々たる気迫に満ちているのである。

私がこの本で目を剥いたのは、道元が、「現世のほかに夢の国は存在しない」と言い切っていることだ。人間が生命あるものとして生きて、必ず死を迎えるということは厳然たる事実である。だから、死から逃れようとして、この現実のほかに、例えば夢のような極楽浄土や、何か永遠の生命というものを求めて死を直視することから逃れようとすることは、救いの途(みち)とは正反対だ、というのである。死という現実を受け容れて、徹底的にそのことを認めてしまう。すると逆に、もう生か死かと考える余地はなくなる。このとき初めて、生死を離れることの可能性が生まれるというのだ。先ず生死を正面から見据えよと、道元は教えているのである。

著者が、「ここは『生死』(しょうじ)の巻(『正法眼蔵』95巻中の第92巻)のハイライトで、『正法眼蔵』全巻を通じてもたいへん有名なところです」と言う部分を例に引き、道元の考え方を見てみよう。

道元が、「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる」と記している部分について、著者は、「『ただわが身をも心をもはなちわすれて』――つまり、かわいいわが身を放り出して、仏の家に投げ入れてしまえ。心を砕いたり理屈を考えたりするな。心でいろいろなことを図ったり、工夫するのはかえっていけない。そんなことをやめてしまえ。そんな心も捨てきってしまえ。とにかく重荷となっている身と心を仏の家に投げ込んでしまえ、そうすれば、むこう側から、仏の側から私たち人間を引き取ってくれる。ただそれに従ってさえいれば、『ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる』。誰でも滞ることなく、救われるのである。・・・これがまた坐禅の真髄です。身心脱落ということを、やさしい言葉で言えばこうもなります」と解説している。道元は、その具体的な方法として、ひたすら座禅せよ(只管打坐<しかんたざ>)と教え諭している。

すなわち、道元は、「来るべき死にどう備えるか→生と死を相対立するものとして、捉えるな→死を徹底的に受け容れてしまえ→己を任せる無念無想の境地を体感せよ→今という瞬間に全力を尽くせ」と言っているのである。