榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

情熱という名の女たち(その9)――歌舞伎を創始し、数々の伝説を身にまとった女・・・【情熱の本箱(9)】

【ほんばこや 2013年2月27日号】 情熱の本箱(9)

かぶきの創始

1603(慶長8)年の陰暦4月、将軍宣下の祝典の余韻の漂う京の町を、一つの新しい芸能の評判が駆け巡っていた。出雲大社の巫女(みこ)と称する阿国(おくに)(1572?~没年不詳)という30歳前後の女が、男装して「かぶき者」に扮し、茶屋の女と戯れる樣を、歌と踊りを交えて巧みに演じてみせたのだ。この時、「かぶき」という芸能が成立したのである。

当時の資料「当代記」が伝えるところによれば、それは、「異風ナル男ノマネヲシテ、刀、脇指、衣裳以下殊異相」だったという。女性の男装という性の倒錯の上に、異相を伴うのであるから、それは確かに妖しい雰囲気を漂わせたものであったろう。

この新しい芸能の創始が、阿国の個性と創造力によってなされたのは言うまでもないが、彼女が時代の転換期に生まれ合わせたということも大きく影響していると思われる。

阿国の独創性

阿国は、京畿内の芸能座に所属していたと思われる節がある。それなのに出雲大社の巫女と称したのは、そのイメージを利用しようとしたのだろう。阿国のような女性同業者はほかにも大勢いたはずだが、阿国はその題目、その内容において格段に際立っていた。このため、人気を博し、今日とは異なり当時は蔑視されていた芸能者の一員に過ぎなかったのに、かぶきの創始者として名を残すことができたのである

阿国に率いられた一座は、常にその時々の権力者を庇護者とし、乱世を巧みに乗り切って、「天下一」の女の座への歩みを進めていった。しかも、阿国は権力に馴染んで大衆を切り捨てるような道は選択せず、上層階級にも大衆にも好まれる新しい芸を次々に案出していったのである。

阿国のかぶき踊りは、京都大学図書館蔵の阿国歌舞伎絵詞によって、その片鱗を窺うことができる。観客席から芸人が登場する画期的手法や、見る者に強烈な刺激を与える官能的な踊りや乱舞といった演出の妙を編み出したのだ。庶民大衆の心に直接訴えかけることで、舞台と客席が一つに融け合い、演技者と観客が一体化して、共に歌い踊る陶酔の中にこそ芸能の喜びがあると、阿国は感じていたのだろう。そして、彼女独自の群を抜いた鋭敏な芸人感覚を生かして、斬新なアイディアを生み出していったのだ。その上、一時の物珍しさに終わることなく、清新な魅力が持続するよう、常に舞台の変化を心がけていたのである。

「当代記」は、阿国について「ただし好(よ)き女に非ず」、つまり美人ではない、と記している。若くもなく、決して美しくもなかった阿国の努力には、本当に頭が下がる。

1607(慶長12)年の江戸城での勧進かぶき上演を最後として、さまざまな伝説を身にまとった阿国は、史上から姿を消してしまう。しかし、女座長が率いる僅か十数人の新興芸能の一座が、3年の余も、花の都の伝統ある興業地で定舞台を維持し得たのは、画期的な出来事であったと言えるだろう。

「かぶき」から「歌舞伎」へ

後代の寛永年間、女芸の一切が幕府によって禁じられた時、既にかぶきを名乗っていた若衆の座の存在によって、かぶきはその命脈を保ったのであるが、女芸人を根絶、完全追放しようとしたのは、儒教的道徳観に基づく秩序維持が目的であった。

「かぶき者」の「かぶき」は、傾く意の「かぶく」という動詞からきた語とされている。かぶくとは、軌道から外れたといったような意味である。かぶきには、その後、歌舞伎という華やかな文字が充てられて、今日に至っている。かぶきの生みの親である阿国が現在の歌舞伎界の隆盛を見たら、何と言うだろうか。

参考文献
・『歌舞伎以前』 林屋辰三郎著、岩波新書、1954年
・『出雲の阿国』(改版、上・下巻) 有吉佐和子著、中公文庫、1969年~1972年
・『出雲のおくに――その時代と芸能』 小笠原恭子著、中公新書、1984年