榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

3つの「豊国祭礼図」から、当時の政治情勢が炙り出されてきた・・・【山椒読書論(422)】

【amazon 『豊国祭礼図を読む』 カスタマーレビュー 2014年3月9日】 山椒読書論(422)

黒田日出男の著作にはいつも驚かされるが、『豊国祭礼図を読む』(黒田日出男著、角川選書)も、その期待を裏切らない、力の籠もった刺激的な論考だ。

時の最高権力者・豊臣秀吉が、5歳の息子・秀頼の将来に心を残しながら死去した6年後に、秀吉を偲ぶ豊国(ほうこく)大明神(=秀吉)臨時祭礼が盛大に執り行われた。著者は、この祭礼を描いた3つの「豊国(ほうこく)祭礼図(豊国祭礼図屏風)」――豊国(とよくに)神社所蔵のもの、妙法院所蔵のものの原本、徳川美術館所蔵のもの――に着目し、それぞれについて、誰が何の目的で描かせたのかという謎に果敢に迫っていく。緻密な論証を積み重ね、大胆な仮説に辿り着く過程が私たちの知的興奮を掻き立てるのである。

「第一の豊国神社本『豊国祭礼図屏風』は、淀殿・秀頼が秀吉恩顧の画家狩野内膳に命じて制作させたものであり、おそらく慶長10年に制作が開始された。そして翌年の8月13日に豊国社に奉納され、『諸人』(=大衆)の見物に供されたのである。この屏風の制作が企画されたか、ないしは制作が開始された頃の慶長10年5月初めに、大坂の淀殿・秀頼母子と家康・秀忠父子の間には鋭い政治的緊張が走っていた」。秀頼を上洛させて、自分の威光を天下に示そうとした家康に対する淀殿の激しい怒りは、「家康に依頼されて使者となった高台院(秀吉の妻おね、北政所)に向けられたのである。豊国神社本では、高台院とおぼしき老尼が皺だらけで恐ろしい顔に表現されているが、それは淀殿が狩野内膳に命じて、そのように描かせたのであった。淀殿の高台院に対する怒りの表現だったのである」というのだ。

「第二の妙法院模本の原本屏風は、慶長15年8月の秀吉13回忌に因んだ豊国大明神臨時祭礼の後に、その制作が企図された。おそらく高台院と神龍院梵舜が協力して新調したものであり、同16年から翌年にかけて制作され、同17年4月に豊国社の『下陣』に立てられ、同じく『諸人』の見物に供されたのだと考えられる。豊国神社本に皺だらけで怖い顔に描かれたのを憤慨していた高台院と神龍院梵舜は、秀吉の13回忌の機会をとらえて、慶長9年の豊国大明神臨時祭礼を描き直した屏風を新調することにしたのである。伝承によって、画家は狩野孝信を想定することが可能である。高台院は、そこに描かれた自分の姿を見て、ほっと胸をなでおろしたのではあるまいか」と推し量っている。

「そして第三の徳川美術館本『豊国祭礼図屏風』である。秀吉恩顧の大名である蓬庵・蜂須賀家政(蜂須賀小六の息子)は、慶長19年の秀吉17回忌にあわせて、隠居屋敷に程近い地に豊国社を建立した。そしてその機会に、彼は豊国神社本と同じような『豊国際礼図屏風』の制作を思い立ち、岩佐又兵衛に依頼した。それが徳川美術館本なのである」。そして、「制作中に起こった大坂の陣と豊臣秀頼の滅亡は、又兵衛の画家としての心に大きな影響を与えた。彼は、大坂の陣と豊臣氏の滅亡を彼なりに受け止め、解釈して、制作中の『豊国祭礼図屏風』の右隻の一角に、秀頼を『かぶき者』に見立てた大坂の陣を描き、その終結後の『うき世』の世界を描き込んだのであった。したがってこの場面には、画家・岩佐又兵衛がどのように大坂の陣を受け止め、『うき世』の到来を思い描いたかが示されているのである」と、見解を述べている。

第一の豊国神社本と第二の妙法院本から、淀殿・秀頼と高台院との確執を読み取る著者の慧眼には恐れ入る。その段階にとどまることなく、第三の徳川美術館本に、岩佐又兵衛が「喧嘩=戦の時代」の終結と「うき世=平和の時代」の到来を描き込んだという大胆な仮説には度肝を抜かれた。

絵画作品をより深く、より豊かに分析・読解するには、同時代の日本歴史からの照射が欠かせないという著者の主張を、本書は見事に実証している。