甘粕正彦は大杉栄殺害事件の真犯人ではなかった・・・【山椒読書論(17)】
無政府主義者の大杉栄と妻・伊藤野枝、甥・橘宗一が、関東大震災直後の1923年9月16日に惨殺された事件の犯人は憲兵大尉・甘粕正彦というのが定説になっているが、これに敢然と反旗を翻したのが、『甘粕正彦 乱心の曠野』(佐野眞一著、新潮社)である。
著者は、甘粕ではなく、憲兵曹長・森慶治郎と、その部下の鴨志田安五郎と本多重雄が真犯人だと実名を挙げている。
その根拠として3点が示されているが、いずれも説得力がある。第1は、田中軍医が筐底の奥深くに隠していた「死因鑑定書」である。第2は、森慶治郎の甥の証言である。第3は、甘粕とは肝胆相照らす仲だった陸士同期の半田敏治の三男の証言である。
甘粕は軍法会議で、「大杉も野枝も自分が絞殺した。そして二人ともほとんど暴れることなく、10分ほどで絶命した」と述べ、10年の実刑判決を受けたが、「死因鑑定書」が「大杉も野枝も、明らかに寄ってたかって殴る蹴るの集団暴行を受け、そして虫の息になったところを一気に絞殺された」ことを雄弁に語っているのだ。
この軍法会議における虚偽の告白を含め、甘粕の複雑怪奇かつ多面的な人物像が、本書で余すところなく描き出されている。
その後、満州事変に至る謀略工作に従事し、満州国建国に一役買い、満州映画協会(満映)を率いた甘粕は、1945年8月20日に服毒自殺する。その前々日、満映理事長室の黒板に「大ばくち もとも子もなく すってんてん」と彼の筆跡で書かれていたことを、何人かが目撃している。「大ばくち 身ぐるみぬいで すってんてん」だったという説もある。
過剰な忠誠心と実務能力を有し、ユーモアを解した甘粕の己と日本、そして満州国の運命に対する自嘲の作と思われるが、別に、巻紙に毛筆で墨痕鮮やかに記された憂国と自責の遺書が3通残されていたという。