榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

岩佐又兵衛風絵巻は、注文主・松平忠直の好みが色濃く反映した作品――という仮説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1965)】

【読書クラブ 本好きですか? 2020年8月31日号】 情熱的読書人間のないしょ話(1965)

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閑話休題、『岩佐又兵衛風絵巻の謎を解く』(黒田日出男著、角川選書)は、美術史家・辻惟雄が打ち立てた岩佐又兵衛風絵巻についての定説に対する絵画史料研究者・黒田日出男の異議申し立て書です。

黒田は、『堀江物語絵巻』(以下、『堀江1』と略す)、『山中常盤物語絵巻』、『上瑠璃(浄瑠璃物語絵巻)』、『堀江双紙』(以下、『堀江Ⅱ』と略す)に焦点を絞り、持論を展開しています。

黒田は、こう主張しています。「又兵衛風絵巻のうち『堀江Ⅰ』・『山中常盤』・『上瑠璃』・『堀江Ⅱ』の4絵巻は、『乳母』(侍従・冷泉・六条)と養君(御曹司牛若・浄瑠璃姫・若君月若)の物語を内包していた。注文主松平忠直は、義父(徳川)秀忠や妻勝子(秀忠の娘)との矛盾・葛藤故に、夫婦の絆と妻の貞節観念を重視したが、それと同時に、自身と『乳母』の『人質』生活などでの強い結び付きの経験によって、『乳母』と『養君』の結び付きと情愛の物語を好み、それらを選んで絵巻にした。絵巻にする物語の選択には、このような注文主の事情・条件が働いていたのである。松平忠直は、夫婦の絆と妻の貞節観念を重んじると共に、『乳母』を大切にし、『乳母』の物語を好んでいたことを、その選択が物語っている」。すなわち、黒田は、岩佐又兵衛風絵巻が描かれた背景として、岩佐又兵衛を中心とする絵師集団よりも、注文主の松平忠直の影響が大きかったと指摘しているのです。

さらに、黒田はこう強調しています。「我々は、又兵衛風絵巻の物語を読むことによって、従来の近世初期政治史の認識や叙述から抜け落ちていた『乳母』の存在に気付き、その役割を見出したのであった。近世史の諸研究にも、文学史料や絵画史料の読解が必要不可欠な所以である」。

「松平忠直が『乳母』と養君の物語に深い関心を抱いたのには、次のような事情・背景があった。忠直は、誕生と共に付けられた『乳母』によって、伏見の邸で育てられた。9歳から13歳までの江戸(の秀忠のもと)での『人質』生活も、『乳母』と共に過ごした。彼女は忠直の傍にいて、母親代わりになっていたのだ。慶長12(1607)年閏4月の父秀康(秀忠の兄)の死去によって、忠直はわずか13歳で越前藩主になるが、彼の傍には依然として『乳母』が仕えていたに相違ない。母の岡山殿(中川氏、清凉院)は、入れ替わりに『人質』となったからだ。徳川勝子も12歳で松平忠直の妻となった。この勝子に仕える『乳母』が黒田局だったのだろう。妻勝子との間に生じた深刻な葛藤において、忠直は妻の『乳母』の黒田局と娘の亀姫の『乳母』の阿蔦の2人を斬殺するに至っている。つまり、忠直・勝子夫婦の矛盾・葛藤においても『乳母』が絡んでいたのであった。それ故、忠直は、『乳母』と養君の結び付きと情愛の物語に惹きつけられる。とくに彼が気に入ったのは、・・・『堀江物語』であったのだ。『堀江Ⅰ』を最初につくったが、さらに改作させて『堀江Ⅱ』をつくった。この両絵巻の存在は、忠直の『好み』を端的に物語っているであろう。・・・松平忠直が岩佐又兵衛と出会ったか、ないしは又兵衛の絵を見たのは、恐らく大坂の陣後の元和元年であり、その絵に惚れ込んで、翌年には又兵衛を福井北ノ庄へ呼び寄せ、この稀有な絵巻群の制作を命じた(ないしは依頼した)のだ、と今の私は考えている。これは無論、推測の段階なので、今後も史料の探索と考察を続けるつもりだ」。極言すれば、「岩佐又兵衛風絵巻群」は「松平忠直絵巻群」だったというのです。

岩佐又兵衛風絵巻群を単なる仇討譚・復讐譚と捉えるのではなく、「乳母」という切り口からも理解を深めるべきだと主張する本書は、私のような『山中常盤物語絵巻』の熱烈なファンには見逃すことのできない一冊です。