月の光が射し込む風呂場で起こったこと・・・【山椒読書論(200)】
短篇集『月光』(有馬頼義著、毎日新聞社。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)に収載されている「月光」は、妙に心に残る作品である。
戦争がもたらす人間ドラマは不条理の世界であり、登場する人物たちはもちろん、著者さえも、彼らがなぜこのような行動をとってしまうのか分からないというのが本当のところではないかと思う。
「丹生阿也子。――二十二歳の夏、深川木場の二階で、保尊基範の暴力によって純潔を失った。母の千佳が、久しぶりに防空演習のない明るい晩なので、二階の二人に声をかけて近所の湯へ行っていたその間の出来事だった。・・・昭和十七年の八月の宵のことである」と始まる。
保尊の妻となった阿也子が「住みなれた東京を発って、今迄地図の上でしか見たことのない満州の北の果に辿りついたのは、・・・十月の中旬であった。来る日も来る日もはてしない曠野の中の旅を十日あまり続けて、孫呉という駅に着くと、保尊が一人の兵隊をつれて迎えに来ていた」。
「その中に保尊の官舎があった。『さあ、着いた』と保尊が扉をあけると、さっき駅へ来ていた兵隊がきちんと膝をついて『お帰りなさいまし』と言った。『大西喜司郎と言うんだ』と保尊は、面喰っている阿也子にその兵隊を紹介した。・・・その翌日から阿也子の主婦としての生活がはじまったのだが、奇妙なことに、この狭い家の中で阿也子のすることが一つもなかった。妻の仕事は全部大西が手際よくやってのけた。・・・燃料は外に石炭の山があって、方々の家から大西と同じような恰好をした兵隊が時々出て来ては、バケツに汲んで行った」。
「阿也子が風呂に入っていると入口の戸があいた。また保尊がのぞきに来たのだろうと思うと、大西が困ったような顔をして立っていた。『中尉殿が自分に、奥さんの背中を流せと言われるのです。流さないと殴られます。目をつぶっていますから流させて下さい』。・・・保尊を呼んでそんなことはしないでくれと言おうと思ったが赤い顔をしている大西の困惑した表情を見ると気が変った。自分がそう出るとかえって大西を困らせる結果になるかも知れないと思った。手向い一つしないで殴られていた大西の姿が心に浮ぶと、阿也子は自分も目をつぶって立上った。大西の無骨な手に触れると得体の知れない戦慄が走った。・・・しかし保尊の命令によって何度か同じことがくり返されているうちに、戦慄も、意識の中の大西の手型も消えて行き、習慣が生れた。阿也子は馴れた」。
ソ連が参戦したため、満州の軍人の家族は全員が内地(日本)に引き揚げることになる。阿也子は保尊に命じられた大西に付き添われて内地に戻ったが、空襲で実家が燃えてしまい、家族の消息も不明なので、大西の家の離れで世話になることにした。
「阿也子は大西が焚いてくれた風呂に入った。電灯のない風呂場には月の光がさし込んでいてあかるかった。・・・それから阿也子は大西を呼んだ。大西は、阿也子が黙って背を向けると、おずおずと流しへおりて阿也子の背中を流した」。この直後、突然、阿也子がどういう行動をとったか。この意外な幕切れ故に、折に触れてこの小説を読み返したくなるのだ。