伊藤野枝と大杉栄の真の姿が浮かび上がってくる本・・・【山椒読書論(191)】
『伊藤野枝と代準介』(矢野寛治著、弦書房)から、伊藤野枝と大杉栄の真の姿が浮かび上がってくる。それは当然といえば当然だ。生家が貧しかった野枝の育ての親ともいうべき代準介(父の妹の夫)が遺した自叙伝「牟田乃落穂」に、野枝の幼い頃のことから、大杉とともに虐殺された後の遺体引き取り、ならびに4人の遺児を九州に連れ帰ったことまで詳細に記されていたからである。
「能力のある子が自分の能力を活かしきれないことに地団太を踏んでいる。東京へ行きたい、長崎や博多より何十倍も都会の東京で自分を試してみたい。この村で終わりたくない。自尊心と、功名心と、千代子(1歳年上の従姉。準介の長女)へのライバル心がノエ(後の野枝)を動かし始める。ノエは叔父・代準介に、(東京の)上野高女に行きたしの哀願の手紙を出し始める」。野枝は自己顕示欲の強い娘であった。
上野高女の英語教師・辻潤(ダダイスト)は、生徒の野枝をこう評している。「顔も大して美人という方ではなく、色が浅黒く、服装はいつも薄汚く、女のみだしなみを人並み以上に欠いていた彼女は、どこからみても恋愛の相手には不向きだった。・・・もし僕が野枝さんに惚れたとしたら、彼女の文学的才能と彼女の野生的な美しさに惹きつけられたからである」。共に暮らし出してからは、「染井(上駒込)の森で僕は野枝さんと生まれて始めて熱烈な恋愛生活をやったのだ。遺憾なきまでに徹底させた。昼夜の別なく情炎の中に浸った。始めて自分は生きた」。
家計が苦しい野枝は、自信のある文才を活かして、我が国初の女性雑誌「青鞜」で働きたいと考え、平塚らいてうに得意の手紙作戦を仕掛ける。願いが叶って入社した「青鞜」の編集室には、野枝のずっと上をいく当時の超エリート女性たちが揃っていた。「ノエは大卒で家柄がよく、父親や叔父が高名なお嬢様たちの中で徐々に頭角を現していく」。2年後に、20歳の若さで、らいてうの後を引き継ぎ2代目編集長兼発行人となるが、翌年、廃刊。しかし、その後も、「娼妓」「女工」「女中」解放の論陣を張り続ける。
野枝が大杉(無政府主義者)と知り合ったのは、大正3(1914)年のことである。「世間を拒絶して生きる辻に比べれば、瞳に満々とした思想を湛える大杉の生き方、考え、弱者への情愛、その行動力と文章に惹かれていた。流二(辻との間の次男)がお腹にいる頃、すでに野枝の心は大杉に傾き始めていた」。野枝から大杉への手紙は情熱的であるが、大杉から野枝への手紙も負けてはいない。「逢いたい。行きたい。僕の、この燃えるような熱情を、あなたに浴びせかけたい。そしてまた、あなたの熱情の中にも溶けてみたい。僕はもう、本当に、あなたに占領されてしまったのだ」。
「井戸端で、明治の生まれの大の男(大杉)がおしめを洗い、野枝の下のものまで洗っていたと伝わる。フランクでフェミニストの、心の広い男である。・・・大杉という男は人たらしで、お茶目で、幼児たちに人気があった」。野枝もこう書いている。「彼はたいていの場合子供を連れて歩きまわります。子供と一しょに玩具をあさり、食物を撰び、その着物、シャツ、靴足袋の類までも世話を焼きます。彼が格別の用事を持たず家にいる時には大部分子供と一しょです。出るにも入るにも子供を連れています。同時にまた私の相手もよくしてくれます。私が夕飯の支度でもするときにはお芋や大根の皮むきくらいは引き受けます。七輪のそばにしゃがみ込んで、はじめからしまいまで、見物しています。御飯を炊く火なぞは大よろこびで燃やします」。
「大正12(1923)年9月26日。代準介、単身、博多より上京。大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の遺体を引取る。落合火葬場にて」とのキャプションが添えられたモノクロ写真が印象的だ。