世界の思想家たちと友達になる方法・・・【MRのための読書論(92)】
思想家たちを友達に
世界の思想家たちと友達にならなくても別に困ることはないと思われがちだが、それはあまりにも近視眼的な発想だ。仕事の上でも、私生活でも、また進むべき道に迷った時、悩みに追い詰められた時、自信を見失ってしまった時も、思想家たちは耳元で適切なアドヴァイスを囁いてくれる。
一番の近道
世界の思想家たちと友達になる方法はいろいろあるが、この3冊を読むのが一番の近道だ。
『もういちど読む山川倫理』(小寺聡編、山川出版社)は、高校の教科書として使われている『現代の倫理(改訂版)』をベースに一般の読者向けに書かれたものである。従って、西洋、東洋、日本の主要な思想家が網羅されており、しかも記述が明快、簡潔で、ポイントがビシッと押さえられている。『齋藤孝のざっくり!西洋思想――3つの「山脈」で2500年をひとつかみ』(齋藤孝著、祥伝社)』は、この著者特有の大局観に立ち、西洋思想を3つの「山脈」――第1の山脈:西洋思想の始まりから「アリストテレス帝国」の建設まで、第2の山脈:「近代合理主義」による哲学の完成、第3の山脈:「完成された哲学をぶっこわせ!」という現代思想――に大別しているので、筋道立てて理解し易い。『人生が変わる哲学の教室』(小川仁志著、中経出版)は、1日ずつ13人の西洋思想家が生き返ってきて、私たちに黒板を使って授業をしてくれるというスタイルをとっているので、臨場感が抜群である。
3冊の魅力
最近の教科書は進化していると、つくづく思い知らされた。「明の時代には、王陽明(1472~1528年)が陽明学と呼ばれる実践的な儒教を説いた。彼は理論を重んじ、社会の既成秩序を重んじる朱子学を批判し、『おのれの心がすなわち理である』と説き、すべての人間の心の中から、ものごとの正しい道理である理が生まれるとした(心即理)。・・・毎日の生活の中で自己の仕事や使命に最善を尽すことによって、みずからの人格を錬り磨くこと(事上磨錬)が大切である。・・・知行合一とは、知識と行為をあとから一致させるのではなく、知りつつ行い、行いつつ知るというように、知と行いが一体となった良知(人が生まれながらに持っている正しい知力)の活動のあらわれ方である。心の良知が活発に活動し、それが知識や行いの両面で発揮されるのである」。
齋藤孝の魅力は、その道の権威も疑ってみるという精神にある。「デカルト(1596~1650年)は、哲学者の中でもかなりの有名人物です。・・・『我思う、ゆえに我あり』というのは、『自分が考えるから、私は存在する』ということですが、これも考えてみるとおかしな話です。ごく普通に考えれば、『我存在する、ゆえに我は思うことができる』でしょう。・・・では、デカルトはなぜこんなことを言ったのでしょう? ポイントは『存在』という言葉の意味です。デカルトは、肉体としてここにあるという意味で『存在』という言葉を使っているわけではありません。そういうことではなく、『理性という存在として、ここに確固たる自立がある』、つまり『自立している』という意味で使っているのだと思います。・・・そういう意味では、デカルトは非常にうまいところに視点を置きました。『ナイス思いつき』です。これだけの名言を思いつきと言ってしまうのは失礼かもしれませんが、実はよく考えるとツッコミたくなるところが多々あります」。
ニーチェ(1844~1900年)先生の授業は、あの厳めしい顔つきとは異なり、親しみ易く進められていく。「キリスト教っていうのは、聖書を読んでもらえばわかりますが、弱い人を慰める宗教なんです。弱くっていいんだよ、そんなあたなのほうが正しいんだから、きっとあの世で救われるよというわけです。そして救ってくれる主体としての神なる存在を捏造しちゃう。そうやって人々は弱さを肯定し、神という存在にすべてを委ねてしまうのです。自分の人生さえも。でも、それじゃいけないでしょ? これでは奴隷ですよ。私たちは自分の力で強くなれるはずなんです。神様にしか助けてもらえないなんてことになったら、キリスト教がますます偉大なものになっちゃって、私たちはただその前にひれ伏すしかなくなってしまう。私たちは早くそのことに気づいて、そんな奴隷道徳に頼らずに、強く生きていかなければならない。そう思うんです」。
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