護憲の論理、そして改憲の論理が明快に整理されている本・・・【山椒読書論(275)】
憲法であれ何であれ、重要なテーマについては、自分の考えをしっかり持っていることが「大人」としての責任だと考えている。自分の意見に同調する記事や書籍を読んでほくそ笑んでいるだけでは、「大人」として物足りない。自分とは異なる意見の内容を知り、自分の考えを鍛える材料にするのもよし、場合によっては、それを踏まえ自分の考えに変更を加えるのも、真の「大人」の態度と言えるだろう。
こういう観点から、『日本国憲法を考える』(西修著、文春新書)を読んでみた。日本国憲法が抱える問題点が、明快に整理されている。
とりわけ勉強になったのは、「護憲の論理・改憲の論理」の部分である。護憲の立場をとっている人たちは、3つに大別できるという。「①社会主義イデオロギーからいまだに脱皮できず、護憲の旗をおろすことができない人たち。この人たちは、基本のところで間違いをおかしている。なぜならば、現行憲法は、資本主義を基調としており、社会主義を主張するかぎり、どこかで必ず矛盾をきたすことになるからである。そのことを知りながら、あえて護憲を唱えているとすれば、偽装的護憲論という表現がふさわしい。②現行憲法に欠陥のあることを認識しつつ、しかしながらもし改憲すれば、とめどもなく進んでしまい、『いつか来た道』に戻りかねないと考えている人たち。蟻の一穴的護憲論とでもいうべきか。③現行憲法に欠陥のあることを認識しつつ、しかしながらもし改憲ということになれば、多大のエネルギーを必要とするので、従来通り、法律の補充や解釈改憲などで乗り切っていくほうが得策であると考えている人たち。いわば省エネ型護憲論とでもいえようか」。
一方の改憲を主張している人たちも、3つに大別できるという。「①大日本帝国憲法に執着心をもち、天皇の元首化、国軍の新設、国民の義務の増加などを主張している人たち。いわば明治憲法ノスタルジア改憲論と称することができる。②現行憲法は、アメリカ人によって制定されたものであり、手続き的に無効である。それゆえ日本人の手であたらしい憲法をつくるべきで、その際、歴史、伝統、文化など、古来伝わってきた日本のアイデンティティをもりこんだ内容にしなければならないと唱えている人たち、いわば民族主義的(ナショナリズム)改憲論といえよう。③50年以上のあいだに憲法規範と現実との乖離現象がきわめて顕著になってきた。それを修復するためには、憲法を全面的に見直すべきである。憲法見直しにあたっては、現行憲法の国民主権、平和主義および基本的人権の尊重という基本原理を遵守し、一方で世界の憲法トレンドを、他方で日本の独自性を斟酌していくべきであると考えている人たち。複眼的改憲論と呼びえようか」。著者は、この③が最も妥当な考え方だと、その立場を鮮明にしている。
もう一冊、同じ著者の『ここがヘンだよ!日本国憲法』(西修著、アスキー。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)も読んでみた。
「憲法って、いったい何?」、「日本国憲法はなぜ聖典化されたのか?」、「前文のどこが問題なのか?」、「わが国の国家元首はだれなのか?」、「日本は共和制国家なのか?」、「なぜ憲法第九条なのか?」、「北朝鮮の工作船にどう対応したのか?」、「法の下の平等――男女は平等になったか?」、「知る権利は絶対に必要な権利ではないか?」、「学校教育は立て直せるか?」、「首相公選制は是か非か?」、「財政を立て直すにはどうしたらいいのか?」、「道州制は導入すべきか?」、「世界の憲法はどんな方向をめざしているのか?」――などの疑問に著者が答える形をとっているので、理解し易い。
「これまで日本国憲法は大変すばらしいものだと教えられてきすぎたように思う」著者の立場は、自ずと明らかである。
著者の言い分は理解できるが、私自身は、著者が挙げていない④の護憲論――現行憲法は、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を最重要視する世界最高の憲法なので、改憲の必要なし――を支持していることを付記しておく。