征夷大将軍という一介の軍人が日本国王になれたのはなぜか・・・【山椒読書論(296)】
『源氏と日本国王』(岡野友彦著、講談社現代新書。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)によって、日本歴史の知識を深めることができた。
著者が本書を著したのは、「征夷大将軍という地位は、日本の国家主権を示すものではなかった」ということを強調したかったからだという。著者が、「足利義満にせよ徳川家康にせよ、『征夷大将軍』として国家主権を掌握したと言われている人々の多くが、『源氏長者』という『貴種性』を示す地位にも就いているという事実に気が付いた」ことが、その発端であった。
「『征夷大将軍』とは、「夷狄」を「征伐」する軍隊の総司令官という意味に他ならず、そのような『一介の軍人』は、当然のことながらそのまま『日本国王』であり得るはずがない。にもかかわらず、中世・近世において『征夷大将軍』の地位にある人が、日本の国家主権を掌握していたということもまた、否定しようのない事実である。従来、このような将軍職の国家主権を疑問視する研究は、『征夷大将軍』が天皇によって任命されているという点をもって、中世・近世においても、日本の国家主権は『天皇』にあったという主張へと流れる傾向があった。しかし、鎌倉時代の朝廷はともかく、江戸時代の朝廷が『国家主権』を掌握していなかったことは誰の目にも明らかである」。
姓と苗字(名字)の違いについて――姓は天皇から与えられ、父系制的な血縁原理によって継承される公的な名前であり、一方、苗字は家という社会組織自体の、自ら名乗る名前であって、決して血族の名前ではない。故に、与える側の天皇とその一族には姓がないのである。
「『みなもとのよりとも』『たいらのきよもり』『ふじわらのみちなが』などといった、一般に『の』を付けて呼ばれる源・平・藤原・橘・菅原・賀茂などは『氏』(=姓)であり、これは同一の祖先から発した血族全体を指す。これに対して『ほうじょうまさこ』『あしかがたかうじ』『くじょうかねざね』などといった、『の』を付けて呼ばない北条・新田・足利・近衛・九条・松平・徳川などは『名字』であり、住居や所領の地名に由来する『家』という親族集団の呼称なのである」。この件(くだり)には、目から鱗が落ちる思いがした。
「嵯峨天皇は、(50人に上る)多くの皇子女をなすと同時に、彼らをいわば『リストラ』しなければならないという課題を抱え込むことになったのであり、そうした史上初の大規模な『皇族リストラ』に用いられた手段こそ、源の姓を与えて臣下の籍に下すという『源氏賜姓』に他ならなかった」。すなわち、源氏という姓は、スタート時点では准皇族的性格を帯びていたのである。
源氏には、村上源氏に代表される天皇に近い(=近き皇胤の)公家源氏と、清和源氏に代表される天皇から遠い(=遠き後胤の)武家源氏があり、源頼朝は清和源氏の正統に過ぎないのである。
「桓武平氏と清和源氏は、中央政界での出世の道が、その出自の低さによってほぼ完全に閉ざされていた。しかし、実にそのことこそが、彼らを地方へと向かわせ、ひいては次の時代の主役へと成長させていくきっかけとなっていったのである。言ってみれば、東京でのエリートコースに乗りそこねた非主流派の二人が、地方でベンチャー企業を立ち上げた結果、それが次世代の主流産業へと成長していったようなものだ。今日の逆境は明日への好機。まさに禍福は糾える縄の如しと言えようか」。この譬えの見事さよ。
「私たちは、えてして『源氏でなければ将軍になれない』であるとか、『(家康が)源氏に改姓したのは将軍になろうとしていたからだ』などといった続説を信じ込みやすい。これは一つには、『源氏こそが将軍にふさわしい』という鎌倉以来の『源氏将軍』に対する『理想』を、当時の『現実』と錯覚したことが関係していよう。しかしより根本的には、源氏長者が征夷大将軍の兼職と化した江戸時代の『常識』に引きずられ、征夷大将軍には源氏長者がなるはずだという誤解を、多くの人が持っているためなのではなかろうか。しかし、源頼朝は源氏長者ではなかったし、足利尊氏もまた源氏長者ではなかった。清和源氏が源氏長者となるのは足利義満が最初であり、将軍宣下と同時に源氏長者宣下を受けたのは徳川家康が最初である。そして、源氏長者の地位が完全に将軍職と一体化するのは、実に徳川家光以降のことなのである」。
「征夷大将軍という地位は、決してそれのみで『日本国王』たり得るものではなかった。征夷大将軍は、源氏長者の地位を兼ねることで、初めて『日本国王』たり得たのである」――これが著者の結論である。