榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

読書法が変われば、人生が変わる・・・【情熱の本箱(82)】

【ほんばこや 2015年5月7日号】 情熱の本箱(82)

書名に惹かれ、軽い気持ちで『「深読み」読書術――人生の鉱脈(ヒント)は本の中にある』(白取春彦著、三笠書房)を読み始めたが、内容も活字の組み方も読者経験のない若者向けのように感じられたので、いささかがっかりした。

ところが、1/3ほど読み進んだところで、「本のレヴューも信用するに値しないもののほうが圧倒的に多い。これは新聞や雑誌の書評も同じだ。まともな場合でもその評者が理解できた範囲でしか語られていない。ひどい場合はたんなるもち上げか、ひねくれたそしりでしかない。読む本を選ぶときはそういう塵芥に惑わされてはならない、レヴュアーがいかにヴェテランであっても、そのレヴューは参考にならない。ヴェテランのファッションスタイリストのセンスが必ずしもよくないのと似たようなものだ。本は自分の興味、問題意識、センスで自由に選ぶものだ。いったん誰かに頼ったりしたら、今後も他人に頼らざるをえなくなるし、自分の選別眼をもてなくなる」という文章に出くわし、脳が覚醒した。趣味で、あちこちに書評らしきものを書き散らしている身として、大きく頷くばかりである。

このページに至るまでに使用した付箋はゼロであったが、これ以降のページは付箋でヤマアラシのようになってしまった。

「(人間への問いかけがある書物の)対極にある娯楽のための小説の呼び名で、もっとも適当なものは『読み物』だろう。読み物はいつの時代でももっとも売れて氾濫している書物であるが、一部では低級だと軽んじられがちなたぐいのフィクションでもある。しかし、肝心の読者にとって、読み物小説は低級ではない。すこぶるおもしろいものとして読まれているのだ。だから、一度病みつきになったら、特定の読み物作家の作品を買い続けて、当分の間は読みあさることになる」。「一般の大衆小説のような読み物がおもしろいというのは、ストーリー展開に魅了されているのである。一方、ドストエフスキーがおもしろいという人は、ストーリーではなく、小説の中の登場人物たちのものの考え方や問題意識のもち方に魅了されているのである」。著者の、この通説とは異なる「ストーリー派」と「脱ストーリー派」の比較・分析は説得力がある。

ものの見方を変える方法に関し、「もう一つの方法は、習慣をすべて変えるよりも簡単なことで、それはやはり、古典と呼ばれている書物を自分で読むことである」。「もし、一冊の古典を我慢し続けて読んでみた日には、唖然とするはずだ。古典がどれほど濃い内容と鋭い視点で世界をとらえているかを知って、驚くに違いない。思わず、『古くさいものの見方をしていたのは、われわれ現代人のほうではないか』と叫ばずにはいられないだろう」と述べている。

著者は、古典中の古典として聖書を推奨している。何を薦めるかは、もちろん著者の自由であるが、モーパッサンの作品について、「モーパッサンの短篇小説は中高生が読んでもおもしろいし、今後の人生についてなにがしか得るところがあるだろう。しかし、その中高生らが社会に出て働き、自分を高めようと本を読む習慣をもつようになるならば、モーパッサン程度ではもはやまったく飽き足らなくなるだろう」と軽んじている点は、モーパッサン・ファンの私としては到底納得できない。

「『情報』をいくら集めても『知識』は超えられない」。「情報をせんじつめると看板になり、知識をせんじつめると知恵になる」。「書物の知識とはページの中に書かれている情報のことではない。個々の書物がもっている知識とは、その中に書かれている事柄を著者がどう結んでいるかということなのだ、それは、技術が進んだ現代にあってもなお、文章という古典的な形でしか表現できないものなのだ。そして、読書をするということは、著者のやり方による事柄の結びつけ方を自分の中でシミュレーションしてみることなのである」。これらの比喩は分かり易い。

読書において押さえるべき3つのポイントが挙げられている。「①書物の主張、あるいは結論が何であるかをはっきりと知る。②その主張や結論を導いた根拠を押さえる。③その根拠の前提となっているものが何かを押さえる。――最初はどんなに難しそうに見えていた書物でも、この3つさえはっきりさせることができれば、とても簡単な書物に見えてくる。そして、この3つを知ってようやく『一冊の書物を読んだ』ということになるのだ」。

「本を漫然と読むだけではなく、そこから読み取りをしなければ、正しく読むことにならない。この読み取りの力を土台から育てるのは、想像力であろう」。「文章に書かれるということは、具体的なものの抽象化をすることだから、それをもう一度自分の中で具体的なものに書き換えなければならない。だから、読書とは受け身でいることではなくて、想像によって自分も参加する積極的な『行為』なのである」。「読み取りの力をつけるためには想像力が必要だと書いたが、その想像力はまた、読書によってつちかわれる」。この想像力の好例として、養老孟司の『身体の文学史』の一節が引用されている。「<『古事記』に「豊葦原水穂国」という有名な表現がある。これは、カラカラに乾燥した、大陸の自然を知る人の表現に違いない。・・・もともと日本という土地に土着していれば、こうした表現で、自分の国土を表すはずがない。そうした自然状況こそが、むしろ前提だからである>。そのような風景を生まれたときからあたりまえのこととして見ているのなら、改めて表現するはずがない、よってこれを記述した人々は、日本とは異なった風土から来た人間(外国人)であろうと養老孟司氏は推理しているのだが、これが読み取り、あるいは洞察力だ。そして、読み取りというこの働き自体が知恵と呼ばれてきたものだ」。養老孟司の想像力には恐れ入ったなあ。

この後も、読書術の具体的なアドヴァイスが満載であるが、速読についての著者の言い回しが振るっている。「訓練すれば一冊の本が数分で読めるようになる速読法があるのだという。その方法を用いれば、見開き2ページ分の内容を数秒で理解するというのだ。・・・哲学書でなくとも、ゲーテの『ファウスト』やドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』やフランクルの『夜と霧』・・・すらも読めないだろう。だとしたら、その速読法はまるで実用性がないということになる。なにしろ、ざっとページをめくってみて内容がおおかたわかるような本にしか効果がないのだから。そもそも、その程度でおおよその内容がわかる本を読んでも時間の無駄であろう」。「本をじっくり、かつ、たくさん読んできた人だからこそ、速読することが自然に可能になったのである」。「物書きの速読とは、書物の記述内容の濃淡をあらかじめ敏感に察したうえで要領よく読む場所を見きわめているから、総体的にずっと少ない時間で理解することを指すわけだ」。「亀の歩みのような読書を重ねることによってのみ、速読を可能にする知識や理解の層が厚くなっていくのである。したがって、本物の速読のノウハウの第一歩は、じっくりと多くの本を読むことなのだ」。全く同感である。

「読書法が変われば、人生が変わる」という著者の熱い思いが籠もった本書は、読書の初心者にもヴェテランにも役立つ一冊である。