女性の肉体の大切な部分に人面瘡が住み着いた・・・【山椒読書論(424)】
『受難』(姫野カオルコ著、文春文庫)は、奇想天外、奇妙奇天烈な小説である。
何しろ、主人公・フランチェス子の女性として大切な部分に、突然、できものができてしまうのである。しかも、そのできものは人間の顔を持ち、言葉をしゃべる人面瘡なのである。
フランチェス子が「古賀さん」と呼んでいる、この住み着いた人面瘡の口の悪さと言ったら、半端ではない。カトリックの修道院で育った敬虔なフランチェス子を日夜、罵倒するのである。
「『おまえのような女が、さびしい、だと。言ったな。今、たしかに言いおった。どのツラさげてさびしいと言ってるか、鏡を見てこいよ』。古賀さんはほんとうにうれしそうだった。『おまえは女のできそこない。おまえのような女の性別が、戸籍では女になってることすらおこがましいんだっ!』。くされ修道女。古賀さんはフランチェス子をそう呼んだ。『いや、修道女のくさったの』。訂正した。『さびしい、なんてのは、男を勃起させられる能力のある女が言えることだ。おまえなんかが言っていいことばじゃないんだよ、いっひっひっひーのひっひ』。『うん』。そのとおりだとフランチェス子は思い、壁にかかった十字架の下にすわり、額を床につけてナワトビで自分の背中をぱちん、ぱちんと叩いた。『神様、私は傲慢でした。私のような女には、さびしい、という資格はありませんでした。ごめんなさい』」。
「フランチェス子には自信というものがまったく残っていなかった。32歳より前には、かろうじてまだ女として一縷の自信が、寝室の箪笥の後ろあたりに隠してあったような気もする。しかしそれも古賀さんとの同棲ですっかりなくなってしまった」。「古賀さんに怒られ罵られつづけて3年、かなしむということを訓練によって制御できるようになったフランチェス子である」。「いやなことや悪いことがあっても、そのなかからでもちょっとでもいいことを発見したり、思いついたりするようにしよう。フランチェス子はそういうふうに努力する子だった」。こういうフランチェス子を、誰だって応援したくなるだろう。フランチェス子、頑張れ!
男性に全く縁がないフランチェス子であるが、「コンピューター相手の仕事に夢中だったし、(在宅)プログラマーとして業界ではそれなりの実績もあげつつあり、(ゲームや教材の)よいソフトを作り上げたときなど、古賀さんもいっしょになって喜んでくれた」。
「あたしって専門学校卒だし」、「乳房が109センチで外開きなので恥ずかしく」、「美術館にあるような石膏彫刻に似た顔立ちをしていたが、石膏さながら、すべての男に石の物体のように映るのである」。しかし、「すべての男に石膏のように感じさせるフランチェス子であったが、表むきのイメージとは反対にゴムのように身体が柔軟」なのである。
最後に至って、「ふんばってがんばるのではないががんばる」フランチェス子と、人面瘡に思いもかけない展開が。