企業のトップ人事の裏事情を知るのに最適なテクスト・・・【情熱の本箱(87)】
『ドキュメント パナソニック人事抗争史』(岩瀬達哉著、講談社)の帯と目次を見た時は、こういう本がよく刊行できたものだという印象を持った。そして、読み終わってつくづく感じたのは、経営の難しさ、人事の難しさ、創業者・創業(オーナー)家のあり方の難しさであった。私自身も、業種は異なるが、当時、業界第2位の企業で激しい派閥抗争の渦中に身を置いた経験を有しているからである。
先ず、創業者・創業家のあり方の難しさから見ていこう。松下電器産業、現・パナソニックの創業者・松下幸之助といえば、「経営の神様」と称され、多くの経営者から師と仰がれ、今なお、その著作は根強い人気を保持している。
その幸之助の部下への指示が、その後の松下電器・パナソニックの混乱・迷走をもたらす原点となったというのだから驚くではないか。「幸之助が他界したのは平成元(1989)年だったが、その9年前、当時の社長山下俊彦にこう命じていたからだ。女婿で、取締役会長の松下正治をなるべく早い時期に引退させるようにと――。・・・幸之助が、『正治を経営から外すように』と、山下俊彦に命じた時点で、すでに社長、会長を19年の長きにわたって務めていた。しかし山下は、正治に引退の引導を渡すことはしなかった。自身で渡すのではなく、後任社長への引継事項としたのである。やがて山下のあとを継いで谷井昭雄が4代目社長に就任し、その大役を果たそうとした時、創業家の反発や正治の執拗な反撃などが相まって、逆に谷井が、社長の座を追われることとなった。あとから考えてみれば、幸之助の『遺言』にもとづく『引退勧告』であっても、谷井の物言いはあまりにストレート過ぎた。正治にしてみれば、いかにも出過ぎた『勧告』であり、とても許せる類のものではなかったのだろう。そればかりか、創業家に対する謀反と受け取った正治は、谷井への悪感情を募らせ、その経営方針にことごとく反対し、組織は大混乱を来すこととなるのである。谷井が社長を辞任するのと相前後して、『谷井政権』を支えていた4人の副社長たちも一掃されている。そして4副社長のもとで、次世代のパナソニックを担う人材と期待されてきた幹部社員たちも、活躍の場を奪われていった」。
「丁稚奉公からたたき上げ、事業を成してきた幸之助には、人情に囚われることなく、事実に忠実であろうとする習性が備わっていた。幸之助は、早くから正治の経営能力を見限っていたのである」。ところが、苦しい当初から夫の事業立ち上げを必死に支えてきた妻・むめのには頭が上がらず、妻が反対する正治引退には踏み切れなかったのである。幸之助ほどの偉大な経営者にしてこの有様だから、他の創業者は推して知るべしだ。
次は、人事の難しさだ。「3代目社長の山下俊彦によってはじめられた経営改革を、4代目社長の谷井昭雄がさらに推し進めようとするなか、会長の松下正治との間で激しく対立した。・・・正治は、一連の改革によって創業家がないがしろにされていると反発。やがてふたりの対立は、経営の主導権をめぐる『人事抗争』にまで発展していったのである。この時点では思いもしなかったことだが、人事抗争の後遺症は、とめどない悪循環を生みだし、その後、約20年にわたって経営の足を引っ張り続けることになった。なかでも、谷井のあとの社長に森下洋一が就いて以来、人事はさらに混乱し、経営は迷走し続けることになる。谷井が周到な準備のもと仕掛けてきたイノベーションの数々を容赦なく全否定し、それを手掛けてきた人材をも排除してしまったからである。しかもそれに代わるあらたな成長戦略を打ち出せなかった。これは森下の性格、およびトップに上り詰めるまでの経緯に深く根差したものだった。もともと森下は、バレーボールの選手として、実業団の松下電器に入社したという経緯があった。したがって常に軽く見られる傾向があったうえ、入社後の配属先も官庁や企業に大型のモーターなどを販売する特機営業本部であった。同じ営業本部でも、売上げの5割を稼ぎだす家電営業本部と違い、傍流に属していたのである。そんな非力な社内基盤しか持ちえなかった森下が、取締役に引き上げられ、さらに常務、専務と駒を進めることができたのは、上司への忠誠と忍従の姿勢が評価されたからである」。
「その後、正治の強力な後ろ盾を得て、社長に就任した森下は、当然のごとく正治の意向を忖度した経営をおこなった。それが、谷井路線の全否定に繋がったのである。人事の経験則を守るどころか、経営者に求められる能力、識見からではなく、いわば会長の好き嫌いによってトップ人事が発令され、経営が差配されていった。この時期、松下電器の人心は相当に淀んだという。森下の社長在任期間は7年に及んだが、その間の『迷走と失速の経営』は、あとを継いだ6代目社長の中村邦夫にも、その後の7代目社長の大坪文雄にも大きくのしかかった」。それほどまでに、正治と谷井の対立が生み出した感情的対立は、経営の空白となってのちのちまで長く尾を引くことになった」。著者の筆は手厳しく、辛辣である。
最後は、経営の難しさであるが、その経緯が実名を用いて具体的に記されているので、我々異業種の人間にも勉強になる。1991年、社長の谷井は、「オン・デマンドの前段階として、まずは、10年に一度の大型商品として開発されつつあったDVD(デジタル・バーサタル・ディスク)とソフトを組み合せることで、あらたなビジネスモデルを創造しようとした。『(買収に成功した米国の総合メディア企業)MCA(現・NBCユニバーサル)の保有する映像や音楽ソフトを、DVDディスクにプリントして販売する、そうすれば、DVDプレーヤーというハードだけじゃなしにソフトでも稼げる。<ソフトとハードの融合>ということで、展開ストーリーを組んどったんですよ』(元役員)。『ソフトとハードの融合』という事業概念は、それまでの松下に無かった、まったく新しい事業を生みだすはずだった。この未経験の事業を成功させるカギは、MCAの買収以外に、DVDのディスクの規格でデファクト・スタンダード、つまり市場における事実上の業界標準を取ることであった」。
「MCAは、7大メジャー映画会社のひとつ、ユニバーサル映画を傘下に持ち、スティーブン・スピルバーグやオリバー・ストーンなど大物監督と専属契約を結んでいた。松下電器がMCAを保有していた平成5年に配給した映画18本のうち、スピルバーグ監督が代表を務める製作会社『アンブリン』がつくった3本の映画の配給収入は約604億円。この年のMCAの映画興行収入814億円の実に7割を稼ぎ出していたのである。3本の映画は、『ジュラシック・パーク』と『シンドラーのリスト』、そしてアニメの『恐竜大行進』だった。テレビ番組部門でもMCAは、『刑事コロンボ』や『私立探偵マグナム』など人気ドラマシリーズを制作していたうえ、音楽分野では、R&B(リズム・アンド・ブルース)の老舗モータウン・レコードを保有していたほか、ポップスからヘヴィメタルまで、幅広い音楽ファンを持つゲフィン・レコードを吸収合併するなど、映像ソフトと音楽コンテンツの宝庫であった。まさに、『ソフトとハードの融合』を実現させるには、欠かせない企業であったのだ」。
ところが、谷井の後を継いで社長に就いた森下は、このビジネスプランを潰してしまうのである。「谷井が社運を賭けて買収したはずのMCAを、カナダの洋酒メーカー・シーグラム(現・ビベンディ)に売却することを決めたのも、まさにこの時期だった。当初から買収に不満を抱いていた正治の意向に、森下が従ってのことである」。
「ちなみに、現在の『ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)』は、松下電器がMCAを(叩き売りのように)転売した先のシーグラムのもとで建設されたものである。ロサンゼルスのハリウッド、フロリダのオーランドに次いで3番目のテーマパークとなったUSJは、日本国内だけでなく海外からの来場者も絶えず、平成25(2013)年度の入場者数は1050万人で売上高は959億円。企業の収益力を示す経常利益も239億円を上げている。繰り言ではあるが、MCAの提案を却下せず、松下で手掛けていればと悔やむ谷井時代の役員は多い」。
「森下に沁みついた本能的な保身は、谷井たちが仕掛けてきたビジネスモデルの鍵となるMCAを失わせ、(MCA会長の)ワッサーマンの予言通り、松下電器に多大な損害を与えることになった」のである。森下の上司であった佐久間曻二が、「MCAを生かせば、MCAを中核として世界のソフト、特にアメリカのそれに深くかかわることができた。惜しかったですね。あれを失ったのは実に惜しかった」と嘆いている。
さらに、森下は、今後のディスプレイは新規技術の液晶かプラズマか、それとも従来のブラウン管かという岐路に立った時、ブラウン管に資源を集中させてしまうという大失策も犯しているのだ。こういう社長では、社員は堪らない。その戦略性の欠如には、目を覆いたくなる。
19年前に、慶大ビジネス・スクールの「松下電器産業株式会社――事業部制」を受講したことを思い出した。隔世の感があるなあ。
著者が後書きで、こう述べている。「『そういうことだったのか・・・』。彼らは、幾度となくつぶやいた。松下電器とパナソニックの役員OBや経営幹部たちを訪ね歩き、それまでの取材成果をもとにトップ人事について議論していた時のことだ。経営凋落の原因が、トップ人事にあることはわかっていた。しかし、取締役会のメンバーといえど、入り組んだ背後事情や、複雑な人間関係が生み出した情動の力学がどのように作用したかなどを、細大漏らさず把握できていた人は、驚くほど少なかった。多くは、その時々、知り得た事柄を繋ぎ合わせ、それぞれ独自の解釈のもと自分なりの理解を引き出していたのである」。私の経験に照らしても、まさに、そのとおりである。だから、下手な経営書やビジネス書を何十冊読み散らすよりも、本書を読み込むほうが、ずっと多くのことを学べるのだ。