榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

「アイルランドのジャンヌ・ダルク」と謳われた絶世の美女の生涯・・・【情熱の本箱(88)】

【ほんばこや 2015年5月26日号】 情熱の本箱(88)

浅学のため、モード・ゴンという女性の存在を知らなかったが、『モード・ゴン 一八六六~一九五三――アイルランドのジャンヌ・ダルク』(杉山寿美子著、国書刊行会)を読んで驚いた。

何に驚いたかというと、先ず、モード・ゴンが6フィート(183cm)のスラリとした長身で、絶世の美女と称えられたこと。次に、ロンドン近郊生まれでアイルランド出身でないのに、アイルランドの虐げられている人々を救うべく対英独立闘争に身を捧げたこと。さらに、後にノーベル文学賞を受賞するアイルランドの詩人、ウィリアム・バトラー・イェイツの憧れの女性であり、彼が詩を生み出す源泉、ミューズであり続けたこと。

類稀な長身と美貌は、収載されている写真で明らかだが、同時代人の讃辞が半端ではない。「『身の丈6フィート、柳のような容姿、やわらかな、はしばみ色(グリーンとブラウンの中間の色)の目、林檎の花のような顔の色、ブロンズ色に輝く髪毛、彼女が部屋に、舞踏会に現われると、人々の頭はそこへ向き、会話は止んだ。彼女が馬車から降り立つと、通りの子供たちは驚き、感嘆の叫び声を挙げた』。『感嘆すべき』、『目が眩むような』、『桁外れの』等々と、彼女の美しい容姿、容貌を、同時代人の証人たちは様々な形容語に表わし、伝えている。モード・ゴンが『生きた伝説』に等しい存在だったのは、何を置いても、彼女が、6フィートの身長に支えられた稀代の美女だったことに拠る。ダブリンの街で、彼女を見掛けた人々は、一瞬、『女神が地上に降り立った』幻覚を覚えたという」。

オックスフォード大を卒業したばかりの20代半ばの青年の証言。「彼女の生き方は、彼女が美しくもなく、貧しくとも、人々の噂を呼んだだろう。彼女は、一般の標準からすればリッチで、とても背が高く、ずば抜けて美しかったから、騒々しいゴシップが立ち、その中を、彼女は無関心というより面白がって動いていた」。

医師であり、アイルランド神話や伝説を題材にした詩集の著者である文学人の日記。「そこで、私は目が眩むほど美しい女性に会った――ミス・ゴン。部屋の男性たちは皆彼女の周りに集まっていた。彼女は素晴らしく背が高く、美しい。午前1時半まで留まり、談笑。彼女の美しさで頭がくらくらする」。

ジャーナリストの言葉。「彼女の美しさに圧倒された。実際、驚嘆するばかり。最初、一目見て、崇拝の想いで息を飲んだ。長身、完璧な容姿、この世にこれ以上ないほど美しい髪毛と顔」。

その上、モード・ゴンの声は、「何時も甘美で低音」と形容されるほど魅惑的だったという。

「モード・ゴンの名に、もう一つの伝説が加わる――アイルランドのジャンヌ・ダルク。・・・アイルランドは彼女の誕生の地ではなく、祖国と呼び得る民族の繋がりも乏しい。・・・長じた彼女は、島国(アイルランド)を祖国と思い定め、その『自由』『独立』のため武力闘争をも是とする過激な革命家に変身した。・・・彼女が、『アイリッシュ・ナショナリスト』として活動を開始する1880年代半ば、アイルランドはかつてないナショナリズムの高揚に沸いた時代である。支配者の高みから民衆の中に降り立ち、『打倒大英帝国』を叫ぶ美しい革命家に、フランスのヒロインに因んだ伝説が生まれたとしても不思議はない」。

「アイルランドの『自由』と『独立』――それが、彼女自身の言葉によれば、モード・ゴンの人生の『唯一の目的にして目標』となり、それを勝ち取るための闘いが彼女の人生そのものとなった。彼女が与した同志は支配者からの分離・独立を唱えた急進的ナショナリストたち。・・・1916年復活祭に、一握りの狂信者たちが引き起こした武装蜂起は、この国の歴史を覆した。この事件を境に、アイルランドは激動、混迷の年月へ突き進んでゆく。対英独立戦争(1919)、南部26州から成るアイルランド自由国誕生(1922)、アイルランド内戦(1922)と、国家を根底から揺るがす破局的事件が相次いだ。1923年5月、内戦が終結した後も、『人々が負ったトラウマは深く』、傷が容易に癒えることはなかった。南部26州がアイルランド共和国を宣したのは1949年――『北』6州を欠いたまま。モード・ゴンは、アイルランドが幾世紀もの歴史の闇を破り、ついに自由と独立を勝ち取ったほぼ1世紀の歴史を生き、1953年、86歳で生涯を閉じた」。

彼女をこれほど激しくアイルランド独立闘争に駆り立てたものは何だったのか。「モード・ゴンが合わせて10年近い年月アイルランドに暮らし、その間に、植民地の悲惨な現実、特に農村の惨状が目に入らなかった筈はない。モード・ゴンが常に心を寄せたのは無力な犠牲者たち――貧しき人々、政治犯囚人たち、小作地から追い立てられる農夫たち、飢える子供たち――であり、彼らの窮状を救うため、彼女は行動を起こした。それは、生涯、一貫して変わることのなかった姿勢であり、火を見れば消火に走らないではいられないにも似た衝動に比すこともできよう。島国では、多くの人々が『アイルランドのジャンヌ・ダルク』を必要としていた」。

モード・ゴンの講演の一節。「幾世紀もイングランドがアイルランドを支配下に置いた圧制は、神に対する、人類に対する犯罪です。圧制者に対し私の魂に溢れる憤りを、あなた方の心と良心に伝えることができれば、国を愛する者として、一人の女として、私は使命を果たすことができます」。

「モード・ゴンを『生きた伝説』に仕立てた要因の一つは、W・B・イェイツの存在である。最も偉大なアイルランド詩人、20世紀の英語圏で最も優れた詩人の一人と評価される彼。モード・ゴンに出会った時、イェイツは23歳。『実在する女性にこれほど美しい女(ひと)がいると思いもしなかった』と告白する彼は、一目で恋に落ちた。その時から、モード・ゴンはイェイツのミューズとなった。数々の愛の詩が書かれ、愛の物語が生まれる始まりである。・・・しかし、イェイツにとって、モード・ゴンは『情(つれ)なき美女』、詩人の献身にも、度重なる求愛にも応えることはなかった」。イェイツに出会った時、モード・ゴンは既にフランス人ジャーナリストの愛人であったからであり、その後、娘と息子の母となり、子育てに苦労し続けたのである。因みに、息子のショーン・マックブライドは、15歳に満たずして、年齢を偽り、母に告げずに、IRA(アイルランド共和国軍)のゲリラ戦士となるが、後にノーベル平和賞を受賞している。

「モード・ゴンがイェイツに私生活の秘密を告白するのは、二人の出会いからほぼ10年後のこと。その後も、彼女は、(愛人の裏切りと)愛人との別れ、独立運動闘士との電撃的結婚、離婚訴訟、と意のままに行動を起こし、その度にイェイツは事件に巻き込まれ、翻弄され、詩人の生涯の最後まで、二人の人生は交錯し続けた――二本の平行線のように」。

「モード・ゴンを取り巻く状況の変化は、イェイツとの関係も大きく変えた。愚かと言えは愚かな結婚によってモード・ゴンが自ら陥った窮状に、非難の言葉も、恨みがましい言葉一つ吐くことなく彼女を支え続けた」イェイツの心情を思うと、同じ男性として胸が痛くなる。

「伝説の美女に、老いは足早に訪れた。(対英独立闘争のため投獄され)釈放された直後のモード・ゴンが、5か月余の獄中生活に『痩せ細り』、『手紙を書いても疲れる』ほど衰弱していたことも事実である。しかし、この頃から、時が彼女の顔に刻む爪跡はより深く、よりその数を増してゆく。長身、痩躯、黒いヴェールに黒の衣装を纏った彼女の『魔女』――堂々たる『魔女』――のような風貌は人々の目を奪い、イェイツが『トロイのヘレン』と称え、若く、美しかった彼女との落差に、彼らは驚異の目を向けることになる」。時は、美しい女性に、より残酷な仕打ちをするのだろうか。

本書の内容が絶妙なバランスを保っているのは、モード・ゴンの長所だけでなく、短所にも言及しているからである。モード・ゴンは「単純な公式や図式を行動の拠り所とした。・・・『私が深く研究する用意のない事柄に関して、安全なルールは、イングランドがどちらに付くか見て、その反対側に立つことだと私は信じ、今も信じています』と、彼女はイェイツに書き送っている。イェイツが、モード・ゴンを『単純馬鹿的革命家』と定義したのも、あながち的外れではないかもしれない」と、イェイツに賛意を示している。日本人によって、モード・ゴンの信頼できる評伝が書かれたことを誇りに思う。

モード・ゴンへの弔辞の一節。「アイルランドとの僅かな繋がりから、彼女が貧困、飢餓、不正に苦しむ人々の間に身を置いて、60年以上が経過した。不正は、彼女が許容できないものの一つだった。彼女は、アイルランドをイングランドの支配から解放する以外に、人々の運命を変えることはできないと知って、生涯をアイルランドの人々に捧げた」。モード・ゴンは、数々の困難に見舞われたが、それらに敢然と立ち向かい、自分の生涯の目標に邁進する人生を送ったのである。