作家たちのさまざまな恋愛・結婚を通して、愛のあり方を考える・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1336)】
オナガ、メジロ、ムクドリ、スズメ、ムクドリ、キジバト、ハシボソガラスをカメラに収めました。今日の痛恨事は、15m先のカケスの撮影に失敗したことです。因みに、本日の歩数は10,937でした。
閑話休題、『愛の顛末――恋と死と文学と』(梯久美子著、文春文庫)では、小林多喜二、近松秋江、三浦綾子、中島敦、原民喜、鈴木しづ子、梶井基次郎、中城ふみ子、寺田寅彦、八木重吉、宮柊二、吉野せい――の恋愛と結婚が描かれています。梯久美子の筆力が存分に発揮された作品です。
とりわけ心に沁みたのは、「八木重吉――素朴なこころ」です。
「(出会って半年後)憧れていたミッションスクール、女子聖学院での学校生活を楽しんでいた(東京の)登美子のもとに、(兵庫県の)御影にいる(23歳の八木)重吉から熱烈なラブレターが届くようになる。尊敬する師としてしか重吉を見ていなかった登美子は戸惑ったが、重吉は、登美子に結婚を申し込む者があったらどうしようと、発熱して寝込むほど煩悶する。そして死まで考えたあげく、誰よりも先に自分が結婚を申し込もうと決意するのである」。重吉からの手紙を読んだ登美子は、大変驚き、めまいがするような気がしたと後に回想しています。
「大正11(1922)年1月の重吉と登美子との婚約式の写真があった。重吉も童顔の人だが、写真の中の登美子の顔はさらにあどけない、年譜を見るとこのときまだ16歳、女学校3年生だった」。
結婚した時、重吉は24歳、登美子は17歳でした。それまで主に短歌を作っていた重吉は、結婚後は詩を書くようになります。
「昭和2(1927)年10月26日、重吉は29歳で死去する。・・・重吉に死なれたとき登美子はまだ22歳で、長女の桃子は4歳、長男の陽二は2歳だった。子供たちを必ず手許で育てるようにという重吉の遺言を守り、登美子は百貨店勤めをして独力で二人を養育した」。
しかし、昭和12(1937)年に桃子が、その3年後には陽二が、父親と同じ肺結核で亡くなってしまいます。「登美子に残されたのは、重吉の詩稿だけだった。未刊行の重吉の作品は膨大な数にのぼり、登美子はそれらを柳のバスケットに入れて大切に保管していた。この詩稿を守り、いつの日か世に出すことが自分の使命だと思うことで、登美子はようやく子供たちの死から立ち直り、生きる力を取り戻した。登美子が歌人の吉野秀雄と出会ったのは、陽二を失った4年後の昭和19(1944)年のことである。・・・独身をつらぬいてきた登美子も吉野の思いに応え、ふたりは昭和22(1947)年10月に結婚した。吉野45歳、登美子は42歳になっていた。登美子の思いを汲んで、吉野は重吉の詩を世に出すために尽力した。重吉の作品が広く世に知られるようになったのは、吉野が小林秀雄の協力を得て出版のために動き、昭和23年に創元選書から刊行された『八木重吉詩集』(草野心平編)によってである。登美子が愛した重吉の作品を吉野もまた愛し、深い敬意をもって扱った」。
重吉の詩稿を大切に守り抜いた登美子、登美子の思いを汲んで重吉の作品の出版に努めた吉野――に思いを馳せると、胸が熱くなります。