伊藤博文、山県有朋ら元老の存在は、日本の近代化に貢献したのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(556)】
散策中に、これまで目にしたことのないカメムシを見つけました。いろいろ調べても種名が分からずもやもやしていたのですが、千葉県立中央博物館の宮野伸也氏のおかげで南方系のシロヘリクチブトカメムシと判明しました。近年、棲息域を広げつつあり、東京・埼玉・千葉でも発見例が報告されているそうです。カルガモが杭の上で休憩しています。サフランモドキ(ゼフィランサス・カリナタ)が桃色の花を咲かせています。因みに、本日の歩数は10,275でした。
閑話休題、『元老――近代日本の真の指導者たち』(伊藤之雄著、中公新書)は、近代日本の政治の根幹を担った元老たちの系譜を辿った力作です。著者の直截な語り口が印象に残ります。
元老とは、大日本帝国憲法成立後の1890年代以降、明治・大正・昭和天皇の特別な補佐役として、首相選出を初め、内閣の存廃、戦争、条約改正などの重要国務を取り仕切った最高実力者たちです。
元老の系譜が簡潔に述べられています。「元老のなかで中心的な役割を果たしたのは、まず伊藤博文であり、次いで1900(明治33)年以降には伊藤と山県有朋、1909年10月に伊藤が暗殺された後は山県であった。しかし、山県は第一次世界大戦終了前後になると、新しい時代状況への適応に自信をなくし、最初の本格的政党内閣である原敬内閣の原首相に依存するようになっていった。その後、1937(昭和12)年初頭まで、西園寺公望が元老の中心だった。元老の伊藤・西園寺や原首相は、帝国主義時代の列強間の国際規範や、形成途上の近代国際法を理解した。その上で、日本の国力の限界を常に考え、何よりも国際協調と東アジアに安定した国際秩序を形成することを重視し、日本の近代化に加えて政党政治の確立という民主化を促進した。山県は伊藤・西園寺・原首相と異なり、政党の台頭を抑制し藩閥官僚・官僚政治を維持しようとしたが、極端な対外膨張主義者・植民地主義者でなく、列強や中国との関係が悪化して日本が国際的に孤立することがないようにと、常に考えていた。すなわち元老は、後継首相推薦やその他の重要問題で天皇を輔弼(補佐)することで、日本の国際協調と民主化・近代化を安定して進めていくことに、全体として寄与したといえる」と、著者は元老に好意的な姿勢を示しています。
元老と明治天皇、大正天皇、昭和天皇との関係は、それぞれ異なっていたことが具体的に示されています。
伊藤、山県らの親分格の大久保利通は、著者から高い評価を得ています。「薩摩・長州・肥前の有力者を結集した大久保体制ができたのは、何よりも大久保が薩摩閥にこだわらず、人材を登用する公平性を持っていたからである。これは、木戸(孝允)に疎まれていた長州の山県陸軍卿を参議にしようと動いたことなどからもわかる。あわせて、大久保らには、漸進的に日本を近代化することや立憲国家を作ることについての長期的ヴィジョンがあったからだった」。
一方、近衛文麿の評価は高くありません。「米内(光政)内閣の次の首相は、陸軍を中心に近衛内閣を待望する声が強かった。(昭和)天皇も木戸(幸一)内大臣も、陸軍と関係のよい近衛に陸軍を統制させることを期待しており、木戸内大臣を中心に『重臣』たちの会議が開かれて、近衛が推薦された。西園寺は、意志の弱い近衛に期待しておらず、奉答を辞退した。こうして近衛は、2度目の組閣をすることになった。天皇らの期待に反し、第二次近衛内閣は、9月に三国同盟が調印されるのを推進してしまった。西園寺はその年の11月24日に90歳で死去し、すでに象徴的な意味以外の機能を失っていた最後の元老はいなくなったのであった。それから約1年後に、日本は米・英との太平洋戦争を始め、破局への道を進んでいく」。西園寺は、第一次近衛内閣を見て、近衛がいろいろな人に迎合してしまう弱い性格の持ち主であることを見抜いており、陸軍に引きずられて日本を危うくすることを懸念していたのです。
内容が充実しており、読み応えのある一冊です。