榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

明治十四年の政変は、近代日本を方向づける重要な政変だったという主張・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2222)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年5月14日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2222)

クリムソン・クローバー(ベニバナツメクサ。写真1)、マツバギク(写真2~5)、原種のガーベラ・ヤメソニー(写真6)が咲いています。

閑話休題、『明治十四年の政変』(久保田哲著、インターナショナル新書)のおかげで、あまり重要視されてこなかった明治十四年の政変に対する理解を深めることができました。著者は、この政変を、近代日本を方向づける重要な政変と位置づけています。

明治11年の大久保利通暗殺後、日本の舵取りは、突如、次の世代である大隈重信、伊藤博文、山県有朋、井上馨、黒田清隆らに託されました。彼らは議会開設、憲法制定、金融制度創成などの難問に直面します。

「明治14年3月、参議の大隈重信が即時の議会開設を求める急進的な意見書を提出した。大隈が意見書を内密にしていたため、その内容が発覚すると、政府内では大隈への不信感が高まった。大隈の謝罪により事なきを得たが、その後、政府を揺るがす事件が起こる。7月、明治政府が黒田の主導により、開拓使の官有物を破格の安値で黒田と同郷の五代友厚らに払い下げると報道された。すると在野では、これを薩長藩閥の弊害であるとみなし、政府批判が燃え上がった。大隈が閣内で払下げに反対したことが報じられると、肥前出身の大隈は、反薩長藩閥の星に祭り上げられる。対して政府内では、大隈が薩長打倒を企て、情報をメディアにリークしたのだという大隈陰謀論が急速に広まった。いわゆる、開拓使官有物払下げ事件である。ここにいたり、政府内では大隈の追放で意見がまとまる。もっとも、単に大隈を追放してしまえば、在野の政府批判の火に油を注ぐばかりである。あわせて、在野の要求する払下げ中止と議会開設も発表することで一致をみた。かくして明治14年10月11日、御前会議が開催され、大隈の政府追放と開拓使官有物の払下げ中止が決定された。翌12日、『国会開設の勅諭』が出され、9年後の議会開設が宣言された。以上が明治十四年の政変の概要である」。

「明治十四年の政変は、何をもたらしたのであろうか。一般的な理解を紹介しておこう。まず、伊藤を中心とする薩長藩閥政権を確立させた。また、天皇が定める欽定憲法の制定や、イギリス流の議院内閣制でなくドイツ流の立憲君主制の採用が既定路線となったことも挙げられる。在野に目を移せば、議会開設が宣言されたことで、民権派は議会開設・憲法制定という統一的スローガンを失った。財政面に着目すると、大隈による積極財政から松方正義による緊縮財政にシフトした。このように、政変の帰結は多岐にわたる」。

政変により、薩長の連携が強まるとともに、大隈や福沢諭吉の政治的影響力が低下します。「福沢は、早期の議会開設や積極財政を志向しており、以前から大隈と良好な関係を築いていた。大隈も、福沢の門下生を官僚に積極的に登用した。大隈系官僚と呼ばれる若き俊英たちは、福沢門下生が多く、『実力』を求める大隈の志向に合致していたのである」。大隈の東京専門学校(後の早稲田大学)創立は少し先のことだが、早慶の創立者同士は協力関係にあったのです。

「政変の勝者は、紛れもなく伊藤博文であった。大久保利通の没後、混沌とした政府内の権力状況が続いたなかで、政変により伊藤の存在はその中心に据えられたのである。もっとも、伊藤の思いのままにさまざまな政策が進められたわけではない。・・・政変に勝利した伊藤であっても、その心労は相当なものであった」。

「(参議の)佐佐木(高行)によれば、明治15年2月、伊藤は諸改革が思うように進まないなかで、こう語ったという。大久保利通の存命時は、大久保さえ納得すれば、他の参議も異論を挟まず、明治政府内の合意形成も容易であった。しかし、いまは多くの意見が出され、なかなかまとまらない。自分が『調和家トナリテ漸ク』ことが運ぶのが実態である。以上から、伊藤が心身のバランスを崩したことは、確かであったと考えられる」。

「伊藤博文に加えて井上毅も、明治十四年の政変のまぎれもない勝者であった。・・・政変により汚名返上に成功すると、議会開設・憲法制定のみならず、教育勅語や地方自治制などの重要施策に関与し、その政治的地位を高めたのである。・・・井上なりの危機感があった。政治学者の松沢弘陽氏は、このように述べる。『井上は福沢の巨大な影響力を恐れた。それは福沢たちが唱える立憲体制の構想の影響力に限らず、福沢の言説一般の『人心』へのアピールへの恐れであった』。・・・井上にとって、『人心』への強い影響力を持ち、イギリス流の議院内閣制の採用を主張する福沢諭吉は、最大の政敵であった。だからこそ、政変後も福沢への警戒を緩めなかった」。

「黒田も、明治十四年の政変の敗者であった。野に下りながら、立憲改進党という勢力を得た大隈と比べれば、薩摩グループ内の求心力を失った黒田の方が甚大なダメージを受けた、との見方も可能である。他方で、この黒田の敗北は、伊藤の勝利を一層際立たせる」。

「大隈も福沢も、個人的感情はどうあれ、政治家としての伊藤を評価したのである」という、巻末近くの一行が、印象に残ります。