榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

情熱の編集者・滝田樗陰から学ぶべきこと・・・【情熱の本箱(200)】

【ほんばこや 2017年7月19日号】 情熱の本箱(200)

滝田樗陰――「中央公論」名編集者の生涯』(杉森久英著、中公文庫)を読むまで、滝田樗陰という個性的な敏腕編集者の存在を知らなかった自分の不明を恥じている。

巻末の「滝田樗陰追憶記」が、樗陰という人物の実像を生き生きと甦らせている。吉野作造は、こう記している。「滝田君は十分書ける頭をもって居りながら出来る丈け自分は書かず何とかして人に書かせるという方針を執て居たらしく見える。此方針を彼は容易に破らなかった様だ。是れが雑誌経営に於て彼の大に成功した所以であると思う」。「滝田君は中央公論のためならどんなことでも厭わなかったのである」。「雑誌のためとなれば彼は常に独自の判断を貫く。容易に他の言を聴かない。故に彼の心神の健全である間は、彼の編輯には毎に溌溂たる生気と陸離たる光彩とが横溢して居ったのである」。

谷崎純一郎は、このように述懐している。「滝田君の(原稿)催促は非常に巧妙で、別にくどくどしゃべるのでなく、門口に俥を待たしたまま『御免』と云って玄関に現われる、そして、土間に立ちながら忙しそうに二言三言云うだけで、五分か十分で帰るのだが、それが一種の気合とでも云うのか、実にききめがあった。いやだと思っても、あの赭ら顔のはち切れそうな様子を見ると、どうしても断り切れなかった」。「滝田君の創作を見る眼は、鋭くはあったが偏っていた。殊に晩年は一層偏って来たと思うが、しかし自分のいいと思うものは商売気を離れて賞讃し、必ずしも流行を趁(お)わず、一定の自信と方針とを持って編輯の任にあたっていたのには敬服する」。

芥川龍之介は、感謝の念を述べている。「滝田君は熱心な編輯者だった。殊に作家を煽動して小説や戯曲を書かせることには独特の妙を具えていた。僕なども始終滝田君に僕の作品を褒められたり、或は又苦心の余になった先輩の作品を見せられたり、いろいろ鞭撻を受けた為にいつの間にかざっと百ばかりの短篇小説を書いてしまった。これは僕の滝田君に何よりも感謝したいと思うことである」。「僕は滝田君の訃を聞いた夜、室生君と一しょに悔みに行った。滝田君は所謂観魚亭に北を枕に横たわっていた。僕はその顔を見た時に何とも言われぬ落莫を感じた。それは僕に親切だった友人の死んだ為と言うよりも、況や僕に寛大だった編輯者の死んだ為と言うよりも、寧ろ唯あの滝田君と言う、大きい情熱家の死んだ為だった」。

比較的付き合いの少なかった菊池寛も、このように樗陰を活写している。「その後、集会の席上とか、三四度催促に来られた外は、殆ど会ったことはない。だが、集会の席上で会ったりすると、非常になつかしそうに例のせき込んだ調子で話しかけられた」。

ライヴァル誌『改造』の編集長・山本実彦は、さすがに樗陰の仕事ぶりを鋭く捉えている。「滝田さんが、校正室にあって一章一文を校正しておるさまを傍から見ておると、或は首をかしげたり、軽く舌鼓を打ったりなぞして何でも茶をたてる名人が一滴又一滴を舌の先きで味うがように味わっていた、その芸術上に於ける私との立場、趣味は違っているにしても雑誌編輯に没頭三昧に入ったあの姿は羨ましいかぎりであった」。

次女・西村春江は、家庭における樗陰の姿、仲のよい家族の様子を伝えている。「好きな力士のうちどちらかが出た時は大きな声援です。これにも父なりのコツがあって皆がワァワァ騒いでいる時には何も言わず、周囲が静かになった一瞬、やおら片膝を立てコップのビールを一口呑んでから、『両――国』と大声で叫ぶのです。すかさず『コクギカーン』と黄色い声で叫んでいます。皆いっせいに『アハハ・・・』と笑うのです。妹は両国に国技館があるのでそれが一つになっていると思っているので得々としているのです。父も笑顔でいます。私は恥ずかしくてかがんでしまうのでした」。「父はよく作家の談話筆記に出かけました。徳富蘇峰さんは、特に父を指名なさるようでした。とても気むずかしい方だそうで、気むずかしい点では他の追随を許さぬ父も徳富先生にだけは頭が上らず、一目おいている様子でした。当日になると鎌倉の建長寺まで出張します。前の晩、母は一ダースの鉛筆をきれいに削り、赤、青の鉛筆、消しゴム等を筆箱に入れ原稿用紙と字引と一緒に風呂敷に包んで送り出します。この日ばかりは父が時間を気にしているので私たちまで今日は大事な日と思ってしまうのでした」。「病気の方は一進一退、二人の医者が交代で往診に来られます。遂に尿の出が悪く、両足から水を取るようになり見るも痛ましくホータイが巻かれました。往時の明るかった向日葵の花の色は目に見えて色褪せてきはじめました。ある日徳富さんが御見舞に来られ、『滝田君、君が医者の言う事を聞いて治ったら僕は君の前で裸踊りでも何でもしますよ』と慰めて下さった事がありました。父の心中はどんなであったでしょうか」。

時代に占める樗陰の位置づけを見てみよう。「樗陰が『中央公論』の編集者になったとき、彼はようやく23歳で、まだ学生であった。このとき『中央公論』は売行きが悪くて、廃刊寸前の状態にあった。樗陰は雑誌に小説を載せればかならず売れると主張して、経営者の麻田駒之助を説得し、ついにその夢を実現した。『中央公論』は号を追うて売行きを増し、雑誌界の権威となった。・・・(時代の空気を全身で呼吸していた23歳の樗陰の)編集する『中央公論』の文芸欄はそのまま、時代の青春を代弁していた。白鳥・泡鳴・善蔵・直哉・実篤・龍之介・春夫・弴・万太郎・犀星・荷風・潤一郎その他、明治の終りから大正へかけての作家で、一人として彼の息のかからぬ者はなかった。彼は大正文壇の最大の演出家だったといっていい」。

「滝田樗陰のもうひとつの功績は、吉野作造を起用して、デモクラシー思想を普及した点である。わが国の民主主義は、日露戦後の社会的不安と動揺を背景に、社会主義運動となって爆発しようとしたが、大逆事件によって抑圧された。しかし、自由と平等を求める民衆の願望は完全におさえきれるものではない。藩閥と官僚と軍部の独裁に抗して、民衆の手に政権を奪取しようという願望は、ますます激しくなった。このとき滝田樗陰は、ヨーロッパ留学から帰ったばかりの吉野作造に着目し、ほとんど毎号『中央公論』誌上で、藩閥・官僚攻撃の論陣を張らせたのである。吉野作造の論文は『中央公論』の呼び物となり、旧勢力はこれを憎み恐れることはなはだしく、新時代はこれを歓呼して迎えた。大正から昭和へかけて、奔流のように日本を襲った民主主義・社会主義の風潮は、吉野作造の倦まずたゆまぬデモクラシーの主張によって、その下ごしらえがされたといってよく、その背後にあって、吉野をたえず激励し、鞭撻したのも、滝田樗陰であった」。

編集者・樗陰は、作家の心をどのようにして捉えたのだろうか。「滝田樗陰がいったん惚れこんだ作家に対する熱中ぶりは独特のもので、彼は原稿を受け取ると、すぐその本人の前で読み、気にいった個所があると、声を張り上げて朗誦してみせて、感激したという。自作の他に対する影響力に敏感で、賞められることを何より喜ぶ文学者気質をたくみにつかんだやり方ということができよう」。

「滝田樗陰の第一の功績は、夏目漱石を捉え得たことであった。・・・樗陰は二葉亭四迷にも食い込んでいた。・・・樗陰が編集するようになった時期は、たまたま文壇に自然主義が勃興する時期とぶつかった。独歩・秋声・花袋・藤村らが新鮮な作品を発表しはじめ、つづいて真山青果・正宗白鳥・岩野泡鳴・水野葉舟らが活躍しはじめるころである。樗陰はこれらの人たちの作品を取り上げ、大いに激励して、つぎつぎといい作品を書かせた」。

樗陰の長所は、このように描写されている。「樗陰の性格のなかで、もっともうつくしいところは、人を心の底から愛し、親切を尽すという点にあった。その親切が、時には強制の形をとったとしても、それはどこまでも相手のためを思う善意から出たものであったから、憎めなかった。部下の編集者をほめるときは、かならず麻田社長の前でほめ、欠点は、誰もいないところで、本人に直接忠告した。また彼は、およそ人の陰口をきくということのない男であった。陰険なことや、策略じみたことも、彼の性に合わなかった」。

著者は樗陰の欠点についても言及している。「彼はたしかに頭脳明晰で、情熱と実行力に富む、愛すべき男であったかも知れないが、文学とか思想とかいうような、脆くて、こわれやすく、繊細で微妙なものを取り扱うには、すこしばかり粗雑な神経を持っていたようである。にもかかわらず、彼は明治・大正を通じて、どの編集者よりも大きな仕事をなしとげた。最もいい編集者になるには、単なる文学青年以外の、別の能力が必要なもののようである」。

当時、絶世の美女と謳われた『婦人公論』記者・波多野秋子にも触れている。樗陰は秋子の印象をこう語っている。「波多野さんは僕より一廻り下の午年の生れで、当時25歳であった。・・・背は高く、肉附も程よく、血色もよく、殊に眼が大きく活々と輝き、顔の輪廓や鼻の形などは希臘型で、何処から見ても先づ言い分のない美人と云ってよかった。身の扮装(つくり)もキチンと調って、華美(はで)に流れず、地味に失せず、其好みは誰にでも好い感じを与へるに十分であった。起居動作(たちいふるまい)も日本の女としてはハキハキした方で、書いたものなどには溌剌とした才気が溢れてゐた。可なりの素養もあり、才気もあるのに、前に云ったやうな容貌と服装だから、波多野さんを見た人は誰でも『素敵な美人だ』『なかなか美(い)い女だ』といはぬものはなかったやうである」。

「『婦人公論』の美人記者波多野秋子の名は、文壇・論壇に知れわたった。あるとき滝田樗陰が芥川龍之介を訪問すると、『<婦人公論>の嶋中君に言伝してください。他の人には波多野という別嬪がよく原稿を頼みにゆくそうですが、僕のところへは一度もよこさないのは怪しからんですな。今度から他の人がきても書かないといってください』と笑いながらいった」。

人妻であった秋子が、妻を亡くして独り身の有島武郎と心中したのは、秋子29歳の時のことであった。

本書は、編集というものの本質を教えてくれる。樗陰の後を継いだ嶋中雄作が指摘しているように、編集には知識や知性も必要だが、一番重要なものは、何と言っても情熱なのである。43歳という若さで世を去った情熱溢れる樗陰が、もう少し長命であったならば、どのような活躍を見せてくれただろうか。