榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

品行方正で知られる著名な作家と、隠れ家に囲われている美女との関係・・・【情熱の本箱(217)】

【ほんばこや 2017年11月7日号】 情熱の本箱(217)

私が興味を抱いている12人の歴史上の人物に会って架空対談を行うという形式の小説を数年前に構想し、材料集めに取りかかったが、実現できずに終わってしまった。私の敬愛する作家・辻邦生が同様の趣旨の小説を書いていると知り、短篇集『黄金の時刻(とき)の滴り』(辻邦生著、講談社文芸文庫)を手にした。

本書は、辻が私淑する小説家・詩人――トーマス・マン、アーネスト・ヘミングウェイ、ウィリアム・サマセット・モーム、フランツ・カフカ、エミリ・ディキンソン、スタンダール、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、アントン・チェーホフ、ライナー・マリア・リルケ、ヴァージニア・ウルフ、レフ・トルストイ、夏目漱石――との架空会見記である。

いずれも、対象とした人物に沿った意匠が凝らされた作品ばかりであるが、とりわけ私の心を鷲掴みにしたのは、トーマス・マンへのオマージュともいうべき「聖なる放蕩者の家で」である。

「<彼>は成功した裕福な作家であり、高い教養を持ち、趣味も洗練され、いい家柄の人々と付き合い、文化的価値と社会道徳の代表者なのだ。およそ<彼>は貧困とか汚辱とか陰惨とか荒廃とかには縁がない。端正さ、明晰さ、健全さ、均衡のよさ、裏に対する表、夜に対する昼、暗さに対する明るさこそが<彼>の本領だった。すくなくとも私が感じていた<彼>の印象はそういうものだった。教養ある人たちにとって<彼>の小説を読むことは、いい趣味と知性との持ち主であることの証拠だった。<彼>が書くのは、たしかにやや重苦しいが正確な文章だった。表現主義風の華美な引きちぎれたような文体でも、また俗語的な軽薄な表現を盛りこんだ当世風の吹けば飛ぶような下卑た文体でもなく、均衡よく自然主義風に丹念に観察された記述、たえず共示的な映像を呼び起す暗示に富んだ物語手法ということができた。そうした小説は時代精神の倫理的芸術的側面をいわば模範的に表わしたものと見られていたのである。その<彼>が何かあやしげな隠れ家を持ち、そこへ仕事にやってくる。その家にはたっぷりした暗紅色の髪の美貌の女がひとりで住んでいる。いったいこれはどういうことだろうか――私はまるで舞台のどんでん返しを見るような気持でこの(テーブルを挟んで向かい合って座っている)端正な服装の作家を見たのである」。

「作家はソファに背を凭せかけ、細い縞のズボンに包まれた脚を組んだ。『もし隠れ家のこと、アンナのことが世間に知れ渡れば、それこそスキャンダルでしょう。絵入り新聞は待っていたとばかり書き立てるでしょう。文芸雑誌だって、猫っ被りの作家の正体がばれたと得意がって書き立てるでしょう。私は敵が多いことを知っています。最初の長篇小説が成功したときから、私に敵対し、理由なく私のことを攻撃する人は一人二人ではありません。そんな連中が隠れ家やアンナのことを知ったら鬼の首でも取ったように騒ぎ立てるでしょう。私が市民道徳を守っている作家だと信じていた世間が、それに同調して騒ぐことも眼に見えています。このスキャンダルで、できることなら、私の文壇的生命にとどめを刺し、文壇から追い出そうとさえ考えるでしょうね』」。

「『作家というものはそうした存在です。つまりさっきあなたが私について言ったことと完全に反対の存在――決して市民的ではなく、決して模範的ではなく、決して意志堅固ではない。むしろ反市民的、頽廃的、意志薄弱、怠惰――それが作家の本性です。だから私が隠れ家を持ち、アンナという女性がいても、作家の本性からみれば、何の不思議もありません。ただ私が作家でありながら模範的市民のポーズをとっているために、それがいかにも偽善と見えるのでしょうが、私は模範的市民だと言ったこともなければ、作家的本性とそれが一致すると言ったこともありません。むしろ作家は詐欺師であり、牢獄の心理に通じ、この世とあの世を行き来するヘルメスのような存在だと書いてきたのです』」。

「『美は、はっきり言って、日常生活にぴったり嵌まった、健全な、常識的な人からは生み出されないのです。なぜなら美は健全さからの逸脱であり、官能への没落であり、先駆的な死の恍惚であるからです。美を生み出す人は、この世では死んでいる人、外に出ている人、病んでいる人なのです。でも、実際にそうなら美は生み出されません。美を生み出す前に世間がその人を滅ぼしてしまうからです。だから美を生み出す人は、死にながら、生きたふりをしなければならないのです。私の言うことが解っていただけますか』」。

ある意味、これは空恐ろしい作品と言える。なぜなら、トーマス・マンに仮託して、辻邦生が自らの作家論を吐露しているからだ。その文章だけでなく、生活態度も風貌も、端正・端整で、奥行きが深く魅力的で、自分に厳しい辻の作家論だけに、激しい衝撃を受けたのである。現代作家の中で一番好きな作家である辻の心の奥底の襞の中を覗いてしまったような後ろめたさから逃げ出せないでいる。