松本清張が新聞小説『砂の器』で、たくらんだこと・・・【情熱の本箱(324)】
『松本清張が「砂の器」を書くまで――ベストセラーと新聞小説の一九五〇年代』(山本幸正著、早稲田大学出版部)は、新聞小説として連載された『砂の器』(松本清張著、新潮文庫、上・下巻)に込めた松本清張のたくらみを考察している。
「松本清張の『おそらく最も多くの読者に愛されてきた』『代表作にして、社会派ミステリーの金字塔』が『砂の器』だ。『読売新聞』夕刊に1960年5月17日から翌年4月20日まで連載され、光文社からカッパ・ノベルスの一冊として61年7月に刊行されるや評判となり、『ミリオン・セラー』と呼ばれるにふさわしい作品となった」。
「全国紙である『読売新聞』に新聞小説を連載するにあたり、清張は並々ならぬ決意をもって臨んだはずである。事実、『砂の器』連載時に編集を担当した山村亀二郎は、次のような清張の言葉を伝えている。<僕も真剣です。毎日読者を飽きさせずに読ませるのは相当の工夫を要します。ですから新聞の持つ機能をフルに利用出来るようにして下さい>。『読売新聞』というひのき舞台に臨む清張の決意のほどがうかがえよう。新聞小説家として活躍する『マス・コミュニケーションの王者』たちに仲間入りすることができるか。『砂の器』の連載にとりかかろうとしていたとき、清張は『新進作家』から『現代の英雄』へと飛躍できるか否かの岐路に立っていた」。
清張は新聞小説の読者を「飽きさせずに読ませる」ために、『砂の器』にどのような仕掛けを施したのだろうか。
仕掛けの第1、第2は、「サスペンスの語り、そして生活のリアリズム」だと、著者は分析している。「『砂の器』は<国電蒲田駅の近くの横丁だった>という一文で語り出される。主語を欠いた一文によって読者は、情報が十全には伝えられていないことをすぐさま感知する。空白のまま残された『何が』を充填すべく、読者の眼は先へ先へと進もうとする。ところが『何が』はなかなか明らかにされない。・・・『砂の器』の語りがサスペンスの文法に依拠していることは疑いようがない。語り手は情報のすべてを読者に与えていないことをあらわにし、読者の欲望を宙づりにしようとする。語り手の術中に陥った読者は、否応なく翌日の夕刊への期待を高めることになる。『砂の器』の冒頭の一文は、サスペンスのお手本として記憶されるにふさわしいものである。・・・あえて言うのなら、新聞小説『砂の器』では、中心人物そのものまでが謎と化していたのである。清張は『砂の器』のそこここで謎を仕掛ける。『毎日読者を飽きさせずに読ませる』ために清張が仕掛けたもの、それはまずサスペンスに満ちた語りだった」。
著者は、連載13回目で漸く登場する、探偵役を担う今西栄太郎に注目します。「今西が登場した直後の連載14回目には、帰宅した今西の日常生活が描かれる。夜の12時近くに帰った今西は妻の芳子に迎えられ、塩辛を肴に銚子の酒を楽しむ。・・・『ぶっかけ飯の好きな老刑事』の庶民的な『家庭生活』は、清張の代名詞でもあった。清張がそれを手放すわけがない。それゆえ『砂の器』にも、今西の『家庭生活』がちりばめられている。その庶民的な生活が読者の共感を呼び、小説の世界を身近なものと感じさせるように機能していたのである。サスペンスの語りによって読者を惹きつけ、中心人物の庶民的な生活を描出していくことで読者の共感を呼び込む。ひとまず『砂の器』の仕掛けを、そのようにまとめることができよう」。
仕掛けの第3は、「新聞を読む新聞小説」である。「登場人物、とりわけ今西栄太統は、新聞を読む存在であり続ける。清張の新聞小説においては、週刊誌や雑誌に発表された作品とは比較にならないくらいに、『新聞を読む』という行為が重大な意味を担わされていたのである。・・・『砂の器』では、新聞は一貫して今西栄太郎の眼を通して読まれる。ある時は電車の中で、ある時は布団の中で、ある時は食卓で、新聞は今西によって読まれる。その今西の眼を通して、読者は新聞の内容を知ることになる。読者の視線は今西の眼差しに同調する。いや、視線だけではない。新聞を読む今西の身体所作は、今まさに『砂の器』が掲載されている新聞を読む読者のそれでもある。朝倉摂が(挿し絵で)描いていた、新聞を読む今西の姿は、読者自身の姿でもあるのだ。新聞を読む読者は新聞を読む今西にみずからの所作を見出し、重ね合わせる。すなわち新聞小説『砂の器』は読者を身体のレベルで、今西が生きる小説世界に参画するよういざなっていたのである」。
仕掛けの第4は、「引用の小説、『砂の器』」である。「新聞小説の読者のことを考えるのなら、『相当、厄介』な文章など引用しないに越したことはない。しかし『砂の器』には、そうした新聞小説にはふさわしからぬ『厄介』な文章が、しばしば引用される。しかもそれらの文章はことごとく今西に読まれるものとして、掲示されるのである。・・・『砂の器』には、リーダブルな清張の小説言語とは異質の、『厄介』で『面倒』な文章が頻繁に引かれる。・・・新聞小説には似つかわしくない文章の引用、そしてそれを中心人物である今西の眼を通して提示すること。清張はおそらくあえてこうした『厄介』で『面倒』な文章を読者に提示したのであり、今西とともに当惑させようとした。・・・難解な文章を読む行為を通して、今西は読者となり、読者は今西となる。両者は分かちがたく溶け合うことになる」。
仕掛けの第5は、「新聞小説に引用される新聞の言説」である。「『砂の器』にしばしば引用される新聞、とりわけ(作中人物の)関川の音楽評論は、『読売新聞』の文化欄に掲げられていてもおかしくはないものとして提示される。関川の評を見る読者が、フィクション内の引用をフィクション外のもの、たとえば『文化』欄に掲載される音楽批評と同質であると錯覚してもおかしくはない。いや、そうした錯覚を少しでも感じさせることを清張は企図していた。『砂の器』は中心人物である今西栄太郎の眼差しや、新聞を読むという身体所作を通して、読者を小説世界に参入させようとしている。それと同時に『砂の器』は、小説世界を読者が生きる現実世界に存在させようとしていた。『砂の器』には『読者→小説世界』というベクトルだけでなく、『読者←小説世界』というベクトルも内包されていたのである」。
仕掛けの第6は、「読者の世界/今西の世界/表象の世界」である。「清張は『砂の器』で、『読売新聞』の読者すべてを満足させようとは考えていなかった。『読売新聞』の購読者の中で清張が読者として想定していた存在、それは新聞を読み、難解な文章にうんざりする今西に同調できる人びとだった。・・・読者が属する『現実世界』と『今西の世界』は読むという行為を媒介に浸透し合い、分かちがたく結びつく。その結果、『現実世界』と『今西の世界』は此岸に位置するものとなり、(作中人物の)和賀や関川の属する世界は『表象の世界』として、眺められるものとして彼岸に置かれる。小説世界に『今西の世界』と『表象の世界』という差異を導入し、読者を『今西の世界』に接近させること。それこそが『砂の器』のたくらみだった」。
あの世の清張が本書を読んだなら、山本幸正というのは、なかなかやるじゃないか、とニヤリとするのではないだろうか。