榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

中国初の王朝、夏王朝は確かに実在した・・・【情熱の本箱(340)】

【ほんばこや 2020年9月15日号】 情熱の本箱(340)

夏王朝――中国文明の原像』(岡村秀典著、講談社学術文庫)は、中国初の王朝、夏王朝が実在したのか否かについて、文献史学と考古学の二方向から迫っている。さらに、夏王朝の勢力範囲、存続期間、後の王朝へ及ぼした影響にも筆が及んでいる。

「李済が山西省夏県西陰村で中国の考古学者としてはじめて発掘の鍬をおろしてから70年あまり、夏王朝はようやくそのヴェールを脱ぎはじめた。河南省偃師市に所在する二里頭(にりとう)遺跡は夏王朝の最後の都、その6キロ東で発見された偃師城遺跡はそれを攻略した殷湯王の都であることが判明した。伝説の夏王朝は確かに実在したのである。それが明らかになったのは、中国の考古学者のたゆみない努力のたまものにほかならない」。

「しかし、治水や全土の開拓に功績のあったという禹は実在したのか、禹は夏王朝の最初の王であったのか、王位を世襲する王権が禹・啓より14世17代もつづいたのか、たびたび遷都をくり返した王都のうち、二里頭遺跡が最後の『斟尋』であったとしても、そのほかの『陽城』『商丘』『斟灌』『原』『老丘』『西河』はどこにあったのか、そして夏王朝のはじまりは考古学文化や暦年代のいつにあたるのか、太康の失政や少康による復興など夏王朝の興亡の記録はどこまで確かなものなのか、文献史学の関心からすれば、まだまだ未解決の問題が山積している。考古学からみえてきたのは、殷によって滅ぼされた王朝が二里頭にあったということにすぎないのである」。

「二里頭遺跡で発見された夏王朝は、中国の第一王朝と呼ぶにふさわしい。4000年の文明のはじまりを画期づけるものであった。その王朝と文明を特徴づけるものこそ『礼制』にほかならない。社会を秩序づける規範としての『礼制』は、夏王朝にはじまり、殷周時代に整えられ、戦国から前漢代に儒教経典の礼書としてまとめられた。そして儒教の国教化にともなって『礼制』はラストエンペラーの時代まで歴代の王朝にうけ継がれていったのである」。二里頭遺跡は、およそ2キロ四方に広がっている。

「二里頭文化の領域は、王都の二里頭遺跡を中心とする半径100キロほどの範囲にすぎなかった。王朝の建設される二里頭3期に少しずつ拡大に向かったとはいえ、それは河南龍山文化の王湾類型の分布圏を大きくこえるものではなく、夏王朝は勢力拡大にあまり積極的でなかったと考えられる。そのかわり高度に発達した王朝文化は、周辺地域に強い影響をおよぼした。龍山時代の各地に並立した高い文化とその交流ネットワークは前3千年紀末までに瓦解し、いちはやく王朝の形成をなしとげた二里頭文化から放射的に文化が発信されるシステムに転換したのである。夏王朝の宮廷儀礼を継承しながら、国家の支配体制をいっそう確立させたのが殷王朝である」。すなわち、夏王朝が王朝の形を整え、殷王朝が国家の統治体制を創り出したというのである。また、紀元前16世紀に殷の湯王に滅ぼされた夏王朝の実際の存続期間は100年足らずと、かなり短命であったと記されている。そして、夏王朝の二里頭文化が当時の唯一の文化というわけではなく、その周囲には別の複数の文化集団が独自の勢力を持っていたことを忘れてはいけないのである。