榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

連続射殺魔・永山則夫と『罪と罰』との恐るべき関係・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2733)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年10月10日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2733)

ツリウキソウ(フクシア・マゲラニカ。写真1、2)、ヤブミョウガ(写真3)、センニチコウ(写真4、5)、ハナシュクシャ(ヘディキウム・コロナリウム。写真6)、アベリア(ハナツクバネウツギ。写真7)、ワレモコウ(写真8)が咲いています。ホウキギ(ホウキグサ、コキア。写真9、10)が紅葉しています。因みに、本日の歩数は11,918でした。

閑話休題、『少年殺人者考』(井口時男著、講談社)で圧倒的な存在感を示しているのは、「永山則夫と小説の力――『連続射殺魔』事件」の章です。

「1968年の10月から11月にかけての1ヵ月たらずの期間に、永山則夫は、東京、京都、函館、名古屋と、たてつづけに4人の人間を射殺して、翌年4月に逮捕された。19歳だった。・・・『連続射殺魔』とも呼ばれた永山の、『第二の生』とも呼ぶべき長い日々が拘置所の中で始まる。・・・極貧の崩壊家庭で生い立ち、集団就職で上京し、転職をくりかえしたあげく犯行に及んだ中卒の永山・・・拘置所内での猛烈な『学習』が開始された」。

「『恐しい破壊力』と結びついた『罪と罰』の意味は、70年の8月7日、彼が拘置所で『罪と罰』を読み了えたその日に生じたのだ、と考えるべきである。永山はこの日、『罪と罰』が自分にとって必要だったことの意味を、遅れて、発見したのだ。・・・彼は『罪と罰』を読むのに国語辞典を引くほど『無知』だったが、『どこへも行き場がないという意味』だけは、何の注釈も解説も抜きで、わが身のこととして知っていたのである。いや、極貧の崩壊家庭で兄たちからも虐待されていた彼は、9歳のときから頻繁に家出をくりかえしていた。家出に明確なあてがあったわけではない。ただ『せめてどこかへ』行きたかっただけなのだ。9度にわたるという自殺の企ても同じことだ。この世に『行き場』がなければせめてこの世の外の『どこかへ』行くしかない」。

「『罪と罰』を読み了えた永山は、『ラスコーリニコフを真似たような私』と、傍点を付けてまでノートに記していた。永山はたぶん、『罪と罰』は自分にラスコーリニコフを模倣して犯罪を行わせた、それがこの小説の『恐しい破壊力』だ、といいたい。しかしそれは彼の思いこみであり錯覚である。ラスコーリニコフの犯罪は永山の犯罪とはまるで似ていないし、ラスコーリニコフという青年も、貧乏という一点を除いては永山則夫とまったく似ていない。にもかかわらず永山は、小説への没入がもたらした昂奮の余韻のなかで、ラスコーリニコフに過度に同一化してしまっている。彼はほとんど、『ラスコーリニコフは私だ』といっているに等しい。・・・永山は気づいていないが、『ラスコーリニコフは私だ』というこの錯覚、この熱病のごとき同一化をもたらす力こそ、『罪と罰』という小説の『恐しい破壊力』にほかならない。それは犯行前に彼を襲ったのではない。70年の8月7日の朝、麦めしを食い終わるのといっしょに『罪と罰』を読み了えた、そのときに彼を襲ったのである」。

「永山の処刑は97年8月1日に執行された」。

劣悪な成育環境と犯罪の関係、無知な人間の拘置所内での猛烈な学習、文学作品の恐ろしい破壊力――など、いろいろなことを考えさせられました。