極貧→家庭崩壊→無知→犯罪という悲劇の連鎖について考えさせられる書・・・【情熱的読書人間のないしょ話(940)】
千葉・流山の「杜のアトリエ 黎明」で開催中の「松尾次郎写真展――時の渚 裏磐梯」で、錦秋の裏磐梯を堪能することができました。「秋暁の湖(桧原湖)」、「錦秋の渓(中津川渓谷)」、「錦沼(大沢沼)」、「黄金の森(小野川不動滝入り口)」といった作品に、松尾の写真家としての精進が刻印されています。
閑話休題、『永山則夫の罪と罰――せめて二十歳のその日まで』(井口時男著、コールサック社)は、どのページからも、私たちに耐えられないほど重たいものを突きつけてきます。
永山則夫は「極貧の崩壊家庭で生い立ち、集団就職で上京し、転職をくりかえしたあげく」、1968年10月から11月にかけての1カ月足らずの期間に「東京、京都、函館、名古屋と、たてつづけに4人の人間を射殺して、翌年4月に逮捕された。19歳だった。『連続射殺魔』とも呼ばれた永山の、『第二の生』とも呼ぶべき長い日々が拘置所の中で始まる」。
永山が5歳当時、父親はもう家に寄り付かなくなっていました。「永山則夫の原点としての『捨て子』体験、14歳の三姉、12歳の次兄、10歳の三兄とともに母親に置き去りにされて、10月から翌年の3月まで、極寒の一冬を飢えて過ごした5歳の網走の記憶である。姉兄たちによって橋の上に置き去りにされた幼児であり、姉兄たちのいる家に戻った後でその姉兄たちによって『布団蒸し』にされ、恐怖のあまり助けを求めて泣きわめいていた幼児である。幼い無力な永山は、必死に生き抜こうとする兄姉たちの『足手まとい』だった。つまり彼は『捨て子のなかの捨て子』だった」。
「彼は(フョードル・ドストエフスキーの)『罪と罰』を読むのに国語辞典を引くほど『無知』だったが、『どこへも行き場がないという意味』だけは、何の注釈も解説も抜きで、わが身のこととして知っていたのである。いや、極貧の崩壊家庭で兄たちからも虐待されていた彼は、9歳のときから頻繁に家出をくりかえしていた。家出に明確なあてがあったわけではない。ただ『せめてどこかへ』行きたかっただけなのだ。9度にわたるという自殺の企ても同じことだ。この世に『行き場』がなければせめてこの世の外の『どこかへ』行くしかない」。「永山の犯行までの半生は、『せめてどこかへ』という衝動に衝き動かされた19年間だった」。
「彼は、4人殺害という取り返しのつかない罪を犯して、社会から隔離された独房のなかで、その『意味』を求めなければならなかった。飢え渇いた者が食料や水をむさぼるように、彼は書物をむさぼり読み、知識を吸収しようとしたが、知識は挙げて、自分という存在の『意味』の発見に傾注されていたのだといってかまわない。彼の生に『意味』があるならば、彼の犯行にも『意味』がなければならない。というより、彼の犯行に『意味』が与えられないかぎり、彼の生に『意味』を与えることはできない。(『罪と罰』の主人公)ラスコーリニコフへの錯誤を含んだ過度の同一化の背後にも、『意味』への渇望があったろう。彼は自分の犯罪をそれに照らして理解するための理念型(モデル)をいつも求めていたのであり、ラスコーリニコフという作中人物はその生々しく具体的な理念型(モデル)として現れたのだ。そういう永山に、マルクス主義が、最も強力な理論体系とみえたのは当然である。マルクス主義は、彼の犯罪を資本主義階級社会における『階級憎悪』の表現として意味づけ、またそれが敵を誤った『無知』ゆえの『仲間殺し』だったことを自覚させ、『仲間殺し』なき社会を実現するための革命の必要性と必然性を教えたのである。合同出版版『無知の涙』の最終ページには、永山の強い要望によって、『学問の卒業時点とは、敵となるか否かにかかわらず、マルクス経済学を理解することにある』と記されていた」。
極貧→家庭崩壊→無知→犯罪→獄中生活→猛勉強→手記・自伝的小説の執筆・刊行→刑死という永山の事例から、私たちは何を学ぶべきなのでしょう。私たちに何ができるのでしょう。私たちがこの連鎖から外れている幸運に感謝すべきなのでしょうか。いろいろなことを考えさせられる、ずしりと重い一冊です。