榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

5000年前の男に起こったこと・・・【リーダーのための読書論(15)】

【医薬経済 2008年6月1日号】 リーダーのための読書論(15)

1991年9月19日、オーストリア・イタリア国境近くのアルプスの標高3210mの地点で、氷河の中からかなり原形をとどめた凍結ミイラが姿を現した。

最初は、何十年か前に遭難した登山者の遺体と思われたこのミイラが、放射性炭素法により今から5000年前のものと判明したため、世界中の注目を集めることになる。

この「エッツィ」という愛称で呼ばれることになるミイラが、世紀の大発見と騒がれたのはなぜか。その理由は、4つにまとめることができる。第1は、エッツィが生きていたのが、今から5000年前という気が遠くなるほど大昔であること。イエスが生きていたのが今から2000年前、最初のピラミッドが造られたのが4600年前であることを思い浮かべれば、5000年前というのがどのくらい昔かという感じが掴めるだろう。第2は、エッツィが世界最古のミイラでありながら、氷河に5000年間、密閉されていたおかげで見事な保存状態で発見されたこと。第3は、彼はいわゆる行き倒れの状態で死亡したため、墓に埋葬されたケースと異なり、いかにもそこで生きていたという生々しさが感じられること。第4は、これも氷河のおかげだが、彼の服装や携帯物が奇跡と思えるほど良好な保存状態で発見されたため、彼の死亡原因、死亡時期、職業、故郷が突き止められ、当時の暮らしの状態が明らかにされたこと。一言で言えば、エッツィは幸運な条件がすべて重なった、考古学的に稀有な新石器時代後期のミイラなのである。

5000年前の男――解明された凍結ミイラの謎』(コンラート・シュピンドラー著、畔上司訳、文春文庫)の著者らの考古学的調査により、エッツィの正体が明らかにされていく。歯の磨耗程度などから25~40歳の男性で、身長は160cm、虫歯はゼロ。彼が患っていた疾患については本書も触れているが、その後に朝日新聞が「エッツィは首、背中、腰に疲労が原因らしい関節炎が見つかり、また、胸や首の血管にはカルシウムがたまっており、動脈硬化も患っていた」と、さらに詳しく報じている。そして、エッツィは毛皮製の帽子、上着、ズボン、縄製のマントを身に着け、革製の靴を履いていたのである。5000年前のエッツィの姿が私たちの眼前に生き生きと甦ってくるではないか。

以上の成果を踏まえて、考古学者である著者が再現するエッツィの生と死のドラマは次のとおりである。羊飼いのエッツィにとって生前最後の年の9月か10月に、彼の故郷の村で激しい戦いが発生し、彼は右側の3番目から6番目までの肋骨を折ってしまう。彼は痛む胸をかばいながら、最後の力を振り絞りアルプス山中に逃げ込む。吹雪ないし急な霧、あるいはその両方に見舞われて、完全に疲労困憊している。そこで、以前からよく見知っている窪地で悪天候を回避しようとする。斧と弓、それに背負い籠を岩場の裾に置く。そうこうするうちに暗くなってくる。雪は絶え間なく降り続いており、寒さが身に染みる。手足がだるくなってくる。ついに倒れてしまう。どうにも眠い。服がすぐに凍り始める。一晩のうちに彼は凍りついて遺体になってしまったのである。

著者が「本当にこういう成り行きだったかどうか断言はできないが、しかし、これがかなり確率の高い仮説だとは言える」と自信を示しているだけあって、本書は優れて実証的である。