江戸時代に恐るべき思想家がいた・・・【リーダーのための読書論(29)】
42年前に『忘れられた思想家――安藤昌益のこと』(E・ハーバート・ノーマン著、大窪愿二訳、岩波新書、上・下巻)を初めて読んだ時の衝撃を、今でも鮮やかに覚えている。
ノーマンは、18世紀(江戸時代中期)に安藤昌益という独創的な思想を持った著述家がいたこと、18世紀の中頃に書かれた昌益の著書は1899(明治32)年に狩野亨吉によって発見されるまで長らく後世に知られていなかったこと、その著書は「自然真営道」といい、93冊から成っていることを知り、俄然、興味を惹かれ、丹念に調べてこの書を書き上げたのである。
狩野は、「自然真営道」の稿本(筆写された本)を初めて見た時は著者の思想があまり奇矯なので恐らく狂人ではあるまいかと思ったが、しかし詳しく調べてみると、狂気ではなくて、確かに非凡であり恐らくは天才であると確信するに至ったと述べている。
昌益のそれほど過激な思想とはどういうものなのか。「昌益は明治以前の日本の思想家のなかで、封建支配を完膚なきまでに攻撃した唯一の人である」とノーマンが記している。当時の社会では武士階級が年貢として農民から米を収奪して生きている、武士階級は農民の寄生虫的存在である、また、そのような社会を支える法律的、道徳的制度を作り出した者(これら僧侶、儒者などを昌益は「聖人」と呼んで批判している)がいる、と怒りを込めて指弾している。昌益は、人は自然の一部であり、幸福に自由に生きるためにはぜひとも自然に適合する道を見出さなければならない、それには、一夫一妻のもと、男は耕し、女は織るという「直耕」(自ら耕し、生きる糧を得ること)によって生活する自由で捉われない農民階級を打ち建てねばならないと考えたのだ。封建社会の真っただ中で、農業を主な生業とする階級なき理想社会(農本民主主義)を目指したのである。
こういう時代を超えた思想を独りで考え出した昌益とはどういう人物なのか。昌益は秋田に生まれ、青森の八戸で医師を開業。昌益の高弟、神山仙鶴によれば、昌益は倦むことを知らぬ探究心の持ち主であり、医学だけでなく、植物学、動物学、哲学、歴史、天文学、仏教学、言語学に精通していた。昌益は新たな知識の源泉を求めてやまぬ焼き尽くすような情熱を持っていたのである。昌益は、慎ましく勤勉な農民に強い愛情を注ぎ、国土の自然美に深い愛着を感じていたのだ。
卓越した昌益という人物と、その思想が長年、埋もれていたのはなぜか。自分の理想とする社会の実現がたやすくないことを知っていた昌益が、異端の学説が世に漏れ、徒に犠牲者を生むことを恐れ、著書の配布を信頼できる少数の友人、弟子だけに意識的に限定したからである。
『忘れられた思想家』の著者ハーバート・ノーマンを知るには『悲劇の外交官――ハーバート・ノーマンの生涯』(工藤美代子著、岩波書店。出版元品切れ)がある。
日本で生まれ育ち、ケンブリッジ大、ハーヴァード大に学んだノーマンは、1946年から突然、本国に呼び戻される1950年までの4年余りを、カナダの政府代表として占領下の日本で過ごす。多忙な外交の仕事をこなしながら、気鋭の日本学者として無名の昌益を発掘、紹介したのである。その後、アメリカ上院による「赤狩り」のターゲットとされ、赴任先のカイロで自殺。享年47。
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