榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

カフカの恋人・ミレナは、女性強制収容所で死を迎えた――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その65)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(152)】

【月に3冊以上は本を読む読書好きが集う会 2024年4月18日号】 あなたの人生が最高に輝く時(152)

●『カフカの恋人 ミレナ』(マルガレーテ・ブーバー・ノイマン著、田中昌子訳、平凡ライブラリー)

カフカの恋人 ミレナ』(マルガレーテ・ブーバー・ノイマン著、田中昌子訳、平凡ライブラリー)を読まなければ、迂闊にもミレナ・イェセンスカーという情熱的な女性を知らずに過ごしてしまうところであった。この本に出会えてよかった、ミレナに出会えてよかったというのが、私の正直な気持ちである。ミレナの情熱的な生き方、ミレナとフランツ・カフカの恋、ミレナと本書の著者の友情を知ることができたからである。

ドイツ人の著者、マルガレーテ・ブーバー・ノイマンとミレナは、1940年10月、ドイツのラーヴェンスブリュック女性強制収容所で出会う。チェコ人のジャーナリスト、ミレナは「背が高く、肩幅は広く、なで肩で、そのうえに感じのいいかたちをした頭がのっていた。眼と顎は強い決断力をあらわし、美しい反りをもつ口許は多感なことを示していた。そして、女らしくほっそりした鼻のために、顔はむしろ繊細な感じをあたえていた。また、いくらかおでこ気味の額がつくりだしている生まじめな感じは、額を取りまく短い巻き毛によってやわらげられていた」。二人が知り合って1週間後、ミレナは著者に一つの提案をする。「『ふたたび自由になったら、わたしたちは一緒に本を書きましょう』。彼女の頭のなかには二つの独裁制のKZ(強制収容所)についての著作ができあがっていた。それには、点呼や(囚人の)制服を着せられて行進する一団や、何百万人もの人間の屈辱的な奴隷化などが描かれる。こうしたことが、一方の独裁制(=スターリン)では社会主義という名においておこなわれ、もう一方の独裁制(=ヒトラー)では『君主的人間』の安寧と繁栄という名目でおこなわれたのだ。その本には、つぎのようなタイトルをつけるはずだった。『強制収容所の時代』」。やがてミレナは米英軍による解放の僅か1カ月前に収容所で死を迎えるが、著者は自由の身になった4年後に、『スターリンとヒトラーの囚人として』という著作を刊行することで、ミレナとの約束を果たすのである。そして、この作品はハンナ・アーレントの『全体主義の起源』に強い影響を与えたのである。

「わたしはミレナに会うたびに、彼女の顔色の青さとむくんだ手に驚いた。彼女は苦しんでいたのだ。収容所内の道路でおこなわれる何時間もかかる点呼に凍え、夜は夜で、薄い毛布のために暖まることができなかったのだ。しかし、ミレナの病気のことを話題にしようとすると、ミレナはすぐさま笑いながら話をそらし、わたしの心配や気づかいをいつもたくみにかわそうとした。1940年ごろのミレナはくじけることはまったくなく、大胆で、積極性にみちあふれていた。強い精神が、衰弱した肉体に打ち克っていたのである。わたしは、彼女が飢えに苦しんでいることを知った。そのことについてもミレナは一言ももらさなかった」。

「心からの友情は、いつでも、すばらしい贈りものである。強制収容所という慰めようのない世界で、このような幸運にめぐりあえたとき、その友情は、生それ自体になる。ミレナとわたしは、ともに生きて、この耐えがたい現実に打ち克つことができた。しかしこの友情は、ミレナの力と誠実さによってますます大きくふくらみ、人間としての品位を奪われることにたいする公然たる抗議になった。SS(ナチス親衛隊)はすべてを禁止することができた。われわれ人間を、番号に貶めることも、死をもって脅迫することも、奴隷にすることもできた。――しかし心のなかだけは、われわれはあくまでもたがいに自由で、SSに侵害させなかった」。二人は、その身は強制収容所の囚人であっても、精神だけは「囚人」でなく自由であろうとしたのだ。

「ミレナは毎晩わたしに、病棟やそれ以外の場所で起こった事件を話してくれた」。ジャーナリストだったミレナは、収容所の医師とその助手たちによって、健康な女性が不具にされたり、実験手術が行われたり、病人が注射によって殺されたり、それらの死体から金の歯冠や義歯が奪われたり、新生児がバケツで溺死させられるといった恐ろしい秘密を嗅ぎつけたのである。

「ミレナのように情熱的に生きていく人間は、彼女みずから自分自身について言ったように『感情の束』以外のなにものでもなかった」ことが、カフカとの恋でも明らかとなる。

「ミレナは1920年にウィーンで、カフカの初期の短篇を読んだ。当時いちはやく詩人の偉大さを認めた彼女は、生涯その作品に深い畏敬の念をよせていた。ミレナにとって、カフカの散文ぐらい完璧なものはなかったのである。ウィーンでの数年間は、ミレナも不幸だったので、カフカの作品にはとくべつの共感を覚えたのだろう。カフカの作品を翻訳する計画も、おそらくそうしたことから生まれてきたにちがいない。ドイツ語の知識はまだ不十分であったが、彼女は思い切って訳してみたのだ。こうしてミレナは、カフカの作品『火夫』『判決』『変身』『観察』のチェコ語への最初の翻訳者になった」。

「『わたしがいままでに知り合った人びとのなかで、最良の人間は、ときどき会合で顔を合わせたある外国人(=カフカ)だったと思う。・・・のちになってわかったのだが、とにかくかれは、わたしが出会った人間のなかでもっとも注目すべき非凡な人間だった。わたしはかれの心の奥をかいま見たにすぎないけれど、わたしにこれほどはげしい衝撃をあたえた人間は、いまだかつて存在しなかった』。・・・カフカとミレナの恋は、1920年にメラノ(カフカが肺疾患の療養のために滞在していたイタリア北部の町)ではじまった。その激しさと、またそれが悲劇的にもつれていくさまについては残されたカフカの手紙が証明している。・・・カフカの眼に映じたように、彼女は、ミレナは、愛の女性であった。彼女にとって愛は、ただひとつ、ほんとうに偉大な生を意味したのである。彼女のその感情のはげしさは、愛に身も心も捧げ尽くした。ミレナはもの怖じをせず、はげしく感じとることを恥辱とも思わなかった。・・・フランツ・カフカについてミレナが書いたものはわずかに残っているが、それらはかれの天才や、生活力の弱さによる悲劇について、だれよりもミレナ(当時、24歳)が深く知っていたことを証明している」。

一方、カフカは、「彼女(ミレナ)は、いままで見たこともない生きいきとした燃える火だ」と評している。

「『生命をあたえる力』を持つ強くて若い女性であったミレナは、フランツ・カフカとは単に肉体的にばかりでなく、他のきずなでも深くぴったりと結ばれていた。カフカは、ミレナに書いている。『・・・わたしはあなたを愛しています。わからないのですか、鈍いひと。海が海底のとても小さな石ころを愛しているのとおなじように、わたしの愛はあなたのうえにみなぎりあふれているのです――そしてまた、わたしはあなたのそばにいて、小石でいられたらと思います。神様がそれを許してくださるならば』」。

やがて、二人の恋愛は重病のカフカの希望で終わりを告げるが、ミレナはそれ以後もカフカを愛し続けたのである。1924年6月の、彼女のカフカへの深く心を打つ追悼文がそれを証明している。