良寛という生き方・・・【MRのための読書論(141)】
良寛
私は、良寛の生き方に憧れている。良寛のように何もかも捨てて暮らすという境地にはとても達することはできないが、良寛の考え方と行動に触れるだけでも、心が和らいでくる。『良寛 行に生き行に死す』(立松和平著、春秋社)の前半で良寛の生涯を辿り、後半で良寛という生き方を知ることができる。
生涯
「16歳で元服した(名主の長男)栄蔵(良寛)は、狭川塾で学びながら、遊女屋に出入りして遊蕩の味を覚えたとされている」。「栄蔵は出家をして良寛を名のる。その出家の年齢については、18歳と22歳説がある」。「良寛が円通寺で修行したのは、22歳から34歳までである。良寛は友と交わらず、門前の賑わう街には托鉢に出るくらいであった。一途に禅修行をした」。「天明8(1788)年8月15日、良寛は国仙和尚より『正法眼蔵』の提唱を受け、さとりの境地に達した。良寛という自由自在な生き方が、ここから開かれたのである」。「良寛は、諸国の名知識を訪ねて行脚をする」。「庵を点々とする良寛を見かねた旧友の原田鶕斎が、自分の菩提寺国上寺の五合庵を紹介した。・・・良寛はこの五合庵で、何事にもとらわれない自在な生活をする。酒を持ってくる友があればともに飲み、里に降りては托鉢をして食を得、子供と手まりをついて遊ぶ。だが良寛の内面は孤独であった。良寛の自在さは、何もかも捨て去った果てにある。その根底には深い孤独を抱えていたのである」。「良寛は五合庵に18年間暮らした」。
59歳となり体力の衰えを感じた良寛は、乙子神社の草庵に移り、69歳までここで暮らす。「すでに老境にさしかかっていた良寛は、これまでにもまして自由自在で、子供たちと遊び暮らした。乙子神社境内はよい遊び場だったようである。・・・<この宮の 森の木下(こした)に 子どもらと 手まりつきつつ この日暮らしつ>(この神社にある森の木の下で、子供たちと、手まりをつきながら、つい今日の一日を過ごしたことだ)。良寛は子供たちと遊び、托鉢に出て、親しい友と交わり、詩歌をつくった。相変わらず貧乏には違いなかったが、何不足ということはない清らかな生活であったようだ」。
貞心尼
新潟の島崎の草庵に移った70歳の良寛を、29歳の貞心尼が、尊敬する良寛に和歌を見てほしいと訪ねてくる。「良寛の前に坐った貞心尼は、才媛もさることながら、清楚でにおいたつような美貌の人であった。40歳の年齢の差など越えたほのかな恋愛感情が二人の間に湧き上がるのは、ごく自然のことだ。道をひたすら歩いてきた良寛への、仏の布施であるようにも思える。夫の死という人生の苦難をなめてきた貞心尼にも、同じことがいえる。良寛を愛する多くの人は、晩年に梅花が咲いたような精神的な恋愛に、憧れにも似た感情を持つのである。・・・良寛と貞心尼の交際は4年間、良寛の死までゆっくりとつづく」。
良寛の病気が重くなったとの知らせを受けて、貞心尼は慌てて飛んでくる。「避けられない別離を悲しんで貞心尼が詠むと、良寛は返した。<生き死にの 境離れて 住む身にも さらぬ別れの あるぞ悲しき 貞>(お師匠さまと私とは、生死の境界を超えて仏につかえる身ですのに、避けられない別離があるのは悲しいことでございます)。<うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ>(紅葉が裏を見せ表を見せてひらひら散るように、私も喜びと悲しみ、長所と短所など、さまざまな裏と表の人生を世間にさらけ出しながら、死んでいくことだ)」。
生き方
「良寛の生涯を眺めてみると、身についたものを一枚一枚と捨てていき、最後に身一つとなり、その身すらも捨てたと思える」。見事な断捨離である。
「良寛の漢詩に『夜永平録を読む』がある。良寛が五合庵や乙子神社の草庵でどれほど孤独な時間を送り、そこからどのようにして独特の思想を紡いでいったか、よくわかる詩である。良寛が道元に影響を受け、道元思想によって良寛の独特とも思える思想を形成していった過程がたどれるのだ。この詩こそが良寛の修行の実態を余すところなく伝えていると、私は思うのである」。
良寛に大きな影響を与えた道元の言葉を一つだけ挙げておこう。「<布施といふは、不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。むさぼらずといふは、よのなかにいふへつらはざるなり>(布施というのは、貪らないということである。貪らないということは、世の中にへつらわないことである)」。悪い意味での「忖度」を戒めているのである(笑)。
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