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従来の遺伝子組み換えと、現在のゲノム編集の違いを、君は説明できるか・・・【MRのための読書論(159)】

【ミクスOnline 2019年3月15日号】 MRのための読書論(159)

ゲノム編集

最先端の生命科学技術「ゲノム編集」の基礎、応用、成果、問題点を一挙に学ぶのに最適な本が出現した。『ゲノム編集の光と闇――人類の未来に何をもたらすか』(青野由利著、ちくま新書)が、それである。

クリスパー

「ゲノム編集は2012年ごろから注目を集めるようになった『遺伝子を狙い通りに切り貼りできる技術』です。『ワープロで文章を編集するように、人間の設計図に相当するゲノムを自在に編集する技術』と言ってもいいでしょう。特に『クリスパー・キャス9』(略称:クリスパー)と呼ばれるゲノム編集の分子ツールは、正確で効率がよく、扱いが簡単で、安いという、3拍子も4拍子もそろった技術で、野火のように世界の研究室に広がって行きました」。

「ゲノム編集と従来の遺伝子組み換えは、似て非なるものなのです。従来の遺伝子組み換えは効率も精度も悪く、多くの場合に細胞のDNAのランダムな場所でしか作用せず、狙った通りに遺伝子を組み換えることは困難でした。人間の受精卵に意味のある改変を加えることは、原理的に可能だったとしても、事実上は不可能だったのです。ところが、『クリスパー』の登場で状況は変わりました。細胞の中の遺伝子を狙い通りに操作することが、以前に比べてずっと簡単にできるようになりました。その結果、人間に受精卵でさえも、ネズミや家畜の受精卵のように、遺伝子改変の対象と見なす人々が出てきたのです」。

クリスパーは、もともとは細菌がウイルスの攻撃から身を守るために備えている自然界の仕組みなのだが、エマニュエル・シャルパンティエとジェニファー・ダウドナという女性の研究者ペアが、これをうまく利用して細胞の中で働く使い勝手のいい分子ツールに仕立てたのだ。

この分子ツールの役割は、標的とするDNAの配列を見つけて、二重鎖をばっさりと切断することで、これはDSB(Double Strand Break)と呼ばれている。「ハサミを備えた小さな分子マシン『クリスパー』が、細胞の中のDNAの上を移動しながら次々と塩基配列を点検していく。このマシンは、ゲノムの中で編集したい遺伝子の中の塩基配列(20文字ほど)が書かれたチケットを持っていて、ちょうどこれと同じ塩基配列を見つけると、照合し、ハサミで二重鎖を切断する。もちろん、チケットは紙ではなくて、人工的に設計したRNAでできている。ハサミはたんぱく質でできている。では、DNAの二重鎖を切断した後に何が起きるかといえば、DNAの修復だ。細胞のDNAは自然の状態でも放射線や化学物質などによって傷ついているので、身を守るためにすべての生物がDNA修復の仕組みを持っているからだ」。

「ゲノム編集の主な狙いは、こうした自然の修復を利用して、遺伝子の働きを失わせる『遺伝子ノックアウト』を実行したり、望みの遺伝子を入れ込む『遺伝子ノックイン』を実行したりすることだ」。すなわち、「探して」「切って」「遺伝子をノックアウト」または「望みの遺伝子をノックイン」するというのがゲノム編集の基本的な仕組みということになる。「ノックアウト」というと、失敗のように聞こえるが、生命科学の世界では「役に立つ」手法を意味している。「遺伝子をノックアウトすることでその遺伝子の働きがわかるし、病気のモデル動物を作ることもできる。遺伝子の切断で変異が生じた結果、新たな性質が生まれ、これを品種改良に利用することもできるからだ。『遺伝子ノックイン』の場合は、新しい遺伝子を導入するだけでなく、もとの場所にあった遺伝子変異を修復することもできるし、逆に正常な遺伝子に変異を入れることもできる」。

「人工クリスパーの設計は簡単だ。『ほんの数分間のコンピュータ作業でクリスパーを設計することができ、コストは数十ドルだった』とダウドナは自著『クリスパー』の中で語っている」。

成果と問題点

「こうしてクリスパーが標的遺伝子を簡単に編集できることがわかると、これを利用して編集される生物の種類は次々と増えていった。これまでさかんに遺伝子ノックアウトが作られてきたマウスだけではない。ラット、サル、ブタ、ニワトリ、カエル、ゼブラフィッシュ、ショウジョウバエ、イネ、出芽酵母――。これまでES細胞が作れないために、標的遺伝子組み換えができなかった生物も含め、なんでもござれとなったわけだ。こうなれば当然、登場するのが人間への応用である」。

転移性肺がん、ムコ多糖症のハンター症候群を初め、クリスパーによるゲノム編集治療を目指す臨床研究が目白押しだが、その未来は薔薇色一色なのか、というのが著者の問題意識である。「ゲノム編集治療が対象とする病気の範囲が広がるにつれ、どこまでこの技術を使っていいか、といった議論も生まれてくるはずだ。たとえば、筋ジストロフィーの治療法を健康な人の筋肉増強に使うことの歯止めをどうするか、といった議論だ。体細胞の遺伝子治療・ゲノム編集治療を概観してきたが、考えなくてはならないさらに大きな課題もある。病気の治療のためなら、受精卵を改変してもいいか。それどころか、病気の治療でなくても、受精卵を改変することができるとすれば、それは許されるのかどうか」。

デザイナーベビー

私が一番衝撃を受けたのは、デザイナーベビーの報告例である。「英国のウィトカー夫妻の4歳の息子チャーリーは重い血液疾患で骨髄移植を必要としていた。ところがHLA型が合う提供者が周囲にいなかった。骨髄移植では拒絶反応を防ぐために、HLA型と呼ばれる白血球の型を合わせる必要がある。そこで夫妻が選択したのが、『HLA型が一致する弟か妹を作る』という方法だった。親子の間でHLA型が一致する確率は非常に低いが、兄弟姉妹の間では4分の1の確率で一致するからだ。夫妻は体外受精で受精卵を複数作り、この中から着床前診断でチャーリーとHLA型が一致する受精卵を選び、その受精卵を使って妊娠・出産した。当時、英国ではこうした受精卵選別が認められていなかったため、夫妻は米国のクリニックで着床前診断を受けた。2003年に生まれたチャーリーの弟ジェミーは実際に病気の兄とHLA型が一致していて、臍帯血に含まれる血液幹細胞が兄に移植され、チャーリーは元気になった、というストーリーだ。あらかじめ兄のために選択された受精卵を使って子どもをもうける。この方法は考えようによっては『デザイナーベビー』であり、議論を呼んだ」。この事例は、小説『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ著、土屋正雄訳、ハヤカワepi文庫)を想起させる。

要所要所に挿入されている、蟹に扮したクリスパーが活躍する、ユーモア溢れるイラストが理解を助けてくれるのも、本書の特徴だ。本体価格800円で、これだけの最新知識をそっくり自分のものにできるとは、買い得の一冊である。