榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

川瀬巴水のノスタルジックな版画に癒やされる・・・【山椒読書論(84)】

【amazon 『夕暮れ巴水』 カスタマーレビュー 2012年10月19日】 山椒読書論(84)

風景版画集『夕暮れ巴水』(川瀬巴水画、林望詩・文、講談社。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)を開くと、心に和らぎが訪れる。

昭和初期の日本の風景を描いた川瀬巴水(はすい)の風情ある木版画と、巴水ファンの林望の詩・文が織りなすコラボレーションが堪らない。

暗い前景と橙色の山の遠景の対象が印象的な「塩原おかね路」という画には、「この一見ごく日本的な山道の絵のなかに、わたくしは例えばビアズレーを感じます。この官能的に蛇行する道の姿態のなかに、わたくしは世紀末のヨーロッパを感じます。この渋く調和的な色彩のなかに、わたくしは大都会の倦怠と懐かしい不安を感じます。そして向こうの夕陽に明るく輝く山容のなかに、わたくしはそれらと裏腹な憧れを、そしてこの絵を描いた人の、深い深い孤独と、いじらしいほど至純な魂を感じます。それらが、わたくしがこの人の絵をいつまでも眺めていたい本当の理由です」という文が添えられている。

一人の男が星も疎らな清水寺の舞台から街を見下ろしている、静寂に満ちた「京都清水寺」の画には、「みあかしのなまめかしさや月の春 名誉も富も低く霞める ためいきをつきにきたかと自問して 沈黙に過ぎし時のおしさよ」という連句が寄り添っている。

川端の倉庫の間から漏れてくる光が目を捉える、物音一つしない「夜の新川」の画には、「この光の向こうに何があるか、巴水はなにも語らない。レンブラントやゴヤが光を巧みに描いて、それで何かを語ろうとしたことの意味を、世間の人達はあれこれとおせっかいに忖度し、無性に持て囃しもする。けれども、この暁の蒼い闇のなかに建つ二棟の蔵のはざまから不可思議な白光の射している巴水の絵については、だれもなにも言わない。私の目には、この光と闇は、レンブラントやゴヤのそれよりも、雄弁になにかを物語っているようにながめられる。ただし、それがなにを物語っているのか、巴水はなにも説明しない。宗教や政治や歴史や思想、そんな浅はかなものではなくて、この光には、ただ無為の『時』、一瞬に存在して次の刹那には消え去る『時』のなつかしさが描き取られているのを、だれも気付かないのだろうか、さて・・・・」とある。

雨に降りこめられている旅館の人々が描かれた「宮城県作並温泉」には、「雨には 雨のにおいがあるさ/ 空気の つめたく湿ったにおいだね/ よく降るね もうずっと雨ばかり/ それでもね、朝、雨音に起こされると/ ああ、いいにおいがする、ってね/ つい、ねどこで深呼吸する/ 裏山の木々の梢に とうとうと雨鳴りがして/ もうどこへも行かずにこのまま降りこめられているさ/ どうせなにの役にもたたぬ人生だ/ どれ、ひとつ朝湯にでも浸かって/ 意味もない一日を、・・・・な」という詩が添えられている。

林は巴水について、「川瀬氏の版画は、その技法こそ旧来の浮世絵職人に依拠するところ多かりしかど、その画に横溢するノスタルジアは余人のよく追随するところにあらず。取り分け、暮色に包まれたる閑寂の風景を描かせては古今独歩東西独往、故に吾人私(ひそか)に川瀬氏を呼んで曰く『夕暮れ巴水』と」と評している。

巴水の絵は、いつまで見ていても、そして、何度見ても、本当に飽きがこない不思議な絵なのだ。