榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

これらの100通の手紙には熱い思いが凝縮している・・・【山椒読書論(195)】

【amazon 『百年の手紙』 カスタマーレビュー 2013年5月31日】 山椒読書論(195)

百年の手紙――日本人が遺したことば』(梯久美子著、岩波新書)は、心に沁みる本である。

20世紀の100年間に日本人が書いた手紙100通余りが紹介されている。

「時代の証言者たち」の章の「権力にあらがって」の中の、獄中の管野すがが朝日新聞記者・杉村縦横(楚人冠)に宛てた手紙、<幸徳ノ為メニ弁ゴ士ノ御世話ヲ切ニ願フ>は驚くべきものである。「一見すると何も書かれていないただの半紙。だが光にかざして見ると、針で開けたと思われる無数の小さな穴があり、それが文字になっているのがわかる」。大逆事件で収監された管野(間もなく死刑)が、看守の目を盗んで、同志であり恋人であった幸徳秋水(この事件には関係していなかった)の無実を晴らそうと弁護士を世話してほしいと頼んだものである。「幸徳までが重罪に問われる危険を感じ取った管野の、何とか彼の命を助けようとする必死の思いが、細かく穿たれた点の一つひとつから伝わってくる。しかし、管野の願いもむなしく、幸徳は死刑となった」。

「戦争と日本人」の章の「敗戦のあとさき」の中の、敗戦後間もない時に書かれた昭和天皇から11歳の皇太子への手紙が目を引く。「敗戦にあたって天皇がみずからの考えを率直に述べた貴重な手紙が橋本昭氏によって発掘されたのは、昭和61年のことだった。疎開先の奥日光にいた皇太子(現天皇)に宛てたものである」。<敗因について一言いはしてくれ/ 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである/ 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである/ 明治天皇の時には 山縣 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバツコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつたからです/ 戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである>。手紙の最後の署名は<父より>となっていた。

ソ連軍に監禁されていた中島茂が家族に届けてほしいとの祈りを込めた<通行ノ日本人ノ方ヘ。血ノ涙デオ願シマス>という手紙は痛切である。高い窓から道路に向かって投げたマッチ箱の中に隠した手紙が家族のもとに届いたのである。<子供達よ。お父さんは必ず帰る。お母さんを中心に、しつかりせよ。お父さんは守つてゐる。魂はお前達を守つてゐる。・・・子供よ、五年でも十年でも待つてゐよ。必ずお父さんは帰るよ>。「中島の妻は、遺書となったこの手紙を、乳飲み子のおむつの中に油紙に包んで隠し、日本に持ち帰ったという」。

「愛する者へ」の章の「恋人へ」の中の、中島敦が妻となる橋本たかに出した手紙の一節、<後悔して居ないのは、只、『お前との間のこと』だけだ>が心に響く。「貧しく学問もない自分を恥じて身を引こうとする彼女に、こんな手紙を送っている」。

帝国海軍で最も優秀な提督のうちの一人に数えられる山口多聞が海外の勤務先から自宅で前妻の5人の子育てに健気に励む14歳年下の妻・孝子に書き送った手紙は、<私の好きで好きで心配で心配でたまらない人は、ちっとも御障りはないでしょうね>と始まっている。山口はミッドウェー海戦で空母「飛龍」と最期を共にするが、愛された妻は結婚生活を送った家が空襲で全焼した跡に建てたバラックのような家で生涯暮らし、建て替を勧められても肯んじなかったという。

「死者からのメッセージ」の章の「遺書と弔辞」の中の、演習中に沈没した潜水艇の艇長・佐久間勉の遺言は胸が熱くなる。<小官ノ不注意ニヨリ、陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申訳無シ サレド艇員一同 死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ 沈着ニ事ヲ処セリ>。「遺書には、天皇に宛てた『公遺言』という部分があり、そこには、<部下ノ遺族ヲシテ、窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ、我ガ念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ>と書かれている。死に臨んで部下の遺族の経済的困窮を気遣っているところに、若い艇長の人間性が垣間見える。潜水艇が引き揚げられたのは事故の二日後だった。欧米の潜水艇の沈没事故では、乗組員が出口に殺到した状態で死亡している例もあったというが、この艇では、ハッチを開いてみると、乗組員全員が自分の持ち場で息絶えていたという」。