榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

批評とは人を褒める特殊な技術だ、と小林秀雄は語った・・・【山椒読書論(323)】

【amazon 『読書について』 カスタマーレビュー 2013年12月5日】 山椒読書論(323)

読書について』(小林秀雄著、中央公論新社)には、昭和7~48年に書かれた、読書について、批評について、文化・教養についてのエッセイ17篇が収められている。

日本における文芸批評の第一人者であった小林秀雄に対する好き嫌いは人それぞれであろうが、なるほどと思わされる考察も多い。

「読書について」では、「濫読の一時期を持たなかった者には、後年、読書がほんとうに楽しみになるという事も容易ではあるまいとさえ思われる。読書の最初の技術は、どれこれの別なく貪る様に読む事で養われる他はないからである」と、濫読を勧めている。

「国語という大河」は、面白いエピソードで始まっている。「あるとき、娘が、国語の試験問題を見せて、何んだかちっともわからない文章だという。読んでみると、なるほど悪文である。こんなもの、意味がどうもこうもあるもんか、わかりませんと書いておけばいいのだ、と答えたら、娘は笑い出した。だって、この問題は、お父さんの本からとったんだって先生がおっしゃった、といった」。

「批評と批評家」の「どんな批評を書くにせよ、おお根のところは、批評を書くのではなく、言い度い事が批評になるのだというはっきりした自信がなくてはならぬと思います」という一節、「批評について」の「批評は、作品の背後に人間を見る様になった」、「私達は、相手を語ることによって自己を語り、反省的評言によって相手を論じている、そういう事をやるものである。つまり批評精神の最も根源的なもの、純粋なものと辿って行くと自己批評とか自己理解とかいうものを極限としているという事がわかって来る」という一節には、妙に納得してしまった。私も書評まがいのものを書き散らしているが、対象作品を語る形を借りながら、自分の考えを述べていることが多いからだ。

「批評」では、「自分の仕事の具体例を顧ると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への讃辞であって、他人への悪口で文を成したものはない事に、はっきりと気附く。そこから率直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ」と述懐している。私も「貶す書評」は書かない主義なので、ご趣旨もっともと賛意を表したいが、小林先生が、一方では、かなり辛辣な批評、一刀両断に切り捨てるような批評をしていることと、どう整合性をとるのだろうか。

巻末の「教養ということ」という、田中美知太郎との対談は、すこぶる興味深い。田中の「政治家というものは、結果的には、自分の最初の議論を否定しても国利民福にプラスするようなものが何か出せるという、リアリスティックな精神がなければだめですね」という発言から、思わず、最近の小泉純一郎の「脱原発」発言を思い浮かべてしまった。

また、小林の「たとえば伊藤仁斎の場合、かれは塾を開いて月謝だけで暮しをたてていた。弟子は、あらゆる階級にわたり、金持の商人などもたくさんいたらしいが、そういう連中は、道楽という道楽はしつくして、学問が最後の道楽になったとも思えるんですね。仁斎先生のところへゆけば人生がわかる。暮してゆく意味がわかる。これは酒や女よりおもしろい」という発言。

さらに、小林のこの発言も印象に残った。「ぼくが西周で面白かったのは、西周の目を開いたのが荻生徂徠だったという点ですね。徂徠などは当時異端の学だったわけで、西周も、病気をしたときに、はじめて寝転びながら読んだわけですね。正統の学なら端坐して読まなければならない。たまたま読みはじめて、驚いてしまうわけですね。そこで開眼するわけです」。

小林秀雄は、やはり只者ではないことを再認識させられた。