つげ義春が、今、考えていること・・・【山椒読書論(391)】
「芸術新潮2014年1月号」(新潮社。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)の「大特集 デビュー60周年 つげ義春――マンガ表現の開拓者」は、つげ義春のマンガ、写真、文章、ならびに、つげへのオマージュ満載で、つげファンには堪らない一冊である。
とりわけ、私にとって興味深かったのは、「ロング・インタヴュー つげ義春、語る。」(聞く人:山下裕二)であった。25年以上の休筆・隠棲状態にあるつげが、今、何を考えているのかが、率直に語られているからだ。
リアリズムとシュルレアリスムについて――「意味がないと物ごとは連関性が失われ、すべては脈絡がなくなり断片化し、時間も消え、それがまさに夢の世界であり、現実の無意味を追求するシュール画が夢のようになるのは必然なのでしょう。現実も夢も無意味という点で一致するのでシュルレアリスムもリアリズムも目指している方向は同じではないかと思えるのです」。
手塚治虫について――「トキワ荘には、まだ赤塚(不二夫)さんたちが入られる前、手塚(治虫)さんが一人で住んでおられた時に訪ねたこともありました。マンガ家になろうと思い立ち、原稿料がいくらくらいか訊きに行ったんですが、きちんと応対してくれて、親切でしたよ。自分たちの年代にデビューしたマンガ家は大家になった人が多いですけど、根っこは全員手塚でしたね。だけどぼくは小学校を出るとすぐ働きに出るようになり、現実世界を知ってしまったので、子供がピストルを振り回したり大人を投げ飛ばしたりする手塚マンガになじめなくなり・・・」。
釈迦とイエスについて――「歎異抄も含めて浄土教の説いている『浄土』とは、虚構に惑わされず事実を直視した世界のことでしょう。仏教の原点はリアリズムで釈迦は凄いリアリストだと思えますね。でも自分はキリストも好きなんです。後のキリスト教団は嫌なんですけど、イエスの言葉は深いなあと思って」。
山下の「クラシックではどのあたりが特にお好きなんですか?」という問いに、「バッハ以前です。バッハ以後は、作曲家の個性とかが出過ぎるでしょう。それ以前は教会音楽、神への捧げものでしたから。ベートーヴェンなど、個性を打ち出すものになると駄目なんです」。
山下の「いちばんお好きな映画はなんですか?」との質問には、『居酒屋』(1956年)、『自転車泥棒』(1948年)、『夜行列車』(1959年)、『灰とダイヤモンド』(1958年)、『沈黙』(1963年)を挙げている。
一番好きな自作について――「自分で一番よく出来たと思ってるのは『夢の散歩』(1972年)という作品なんだけど、注目する人がほとんどいませんね」。山下の「ああ、日傘をさした子連れの女の人が出てくる・・・」に対し、「『夢の散歩』は偶然出会った男女が泥のぬかるみの中でいきなり性交をする話ですが、そうなるまでの二人の関係や必然的な理由などはぶいて、ただ唐突な場面を即物的に描写しただけなので意味がないんです。そうすると意味を排除したシュルレアリスムのように夢の世界に似た印象になりますね。現実もあるがままに直視すると無意味になりますが、夢はさらに無意味を実感させてくれるので、リアリティとは無意味によってもたらされるのではないかと考えているのです」。
山下から、「もうつげさんは、マンガはお描きにならない?」と聞かれ、「はい。息子が引きこもりでその世話と家事に追われているので・・・。それと目が悪くて絵が歪んでしまうんです」と答えている。寂しいなあ。