小林秀雄の本音が縦横無尽に迸る対談集・・・【山椒読書論(455)】
一世を風靡した文芸評論家・小林秀雄から一刀両断に切り捨てられた作家たちは、「批評家って、そんなに偉いのかよ」と陰口を利いたに違いない。それほど、小林の批評は高飛車で容赦がない。
『直観を磨くもの――小林秀雄対話集』(小林秀雄著、新潮文庫)は、小林秀雄と三木清、横光利一、湯川秀樹、三好達治、折口信夫、福田恆存、梅原龍三郎、大岡昇平、永井龍男、五味康祐、今日出海、河上徹太郎との対談集であるが、彼の批評や随筆よりも本音が迸っている。この意味で、小林に関心を持つ読者には興味深い一冊と言えるだろう。
小林の批評は、私には「直観」というよりも「直感」によるもののように思えるが、河上との「歴史について」の対談は、印象に残った。「小林:君の『吉田松陰』は面白く読んだ。松陰は非常に孟子が好きなのだね。そこのところがよく書けていると思った。河上:それは松陰のほうがやさしいよ、宣長より・・・。松陰は行動家だから、孟子の実践性にはすぐついて行く。話が簡単だ。彼は孟子の『革命』性にもたじろがない。小林:松陰は実行家だが、宣長は学者だから。そういう点では面倒はあります。宣長は、当時の儒者としては徂徠だけを重んじていた。宣長には、徂徠直伝の孔子観があった。乱暴な言いかたになるが、孔子を貫いていたものは、哲学的な精神だが、孟子の学問は、実行家の精神に貫かれている。そういうところがあるのだな。そこが松陰を捉えた、と言っていいと思う。徂徠・宣長の孔子観というものは、さっき話題になった現代の歴史観にどうしても関係してくることだから、ここで触れておきたい。徂徠の学は古言の研究だが、古言はただちに古事を指すというところに、彼の学問の眼目があった。従って、彼にあっては、言辞の学とはすなわち歴史の学だった。そこで、海に出来る泡沫は海ではない、というヴァレリーのいう微妙な歴史問題に、徂徠は彼なりに触れることになったんです。・・・徂徠によれば、孔子が説いた道とは、古代の聖人が遺した事跡の意味、価値であった。この二度と繰りかえされぬ個性的な、具体的な歴史上の出来事を知るには、事物並みにこれを外部から、分析的に知るわけにはいかない。聖人が感じていた生き甲斐の内部に入りこんで、これを感得しようと努めねばならぬ。・・・」。