政治家と新聞記者を繋ぐ暗黒回廊とは何か・・・【山椒読書論(156)】
日頃は温厚な(?)私だが、『共謀者たち――政治家と新聞記者を繋ぐ暗黒回廊』(河野太郎・牧野洋著、講談社)を読み進めるうちに、怒りで震えてきた。
著者は、「日本の報道界で通用する常識が世界では非常識である」というのだ。「日本の大メディアは(東京電力福島第一原子力発電所事故について)政府・東電の(記者クラブ経由の)発表をそのまま伝える発表報道に終始していたのである。前代未聞の惨事が起きていたにもかかわらず、報道機関としての義務を十分に果たせないまま、権力とのインナー(内密な身内的な)グループの論理でしか動けなかった。一方、日本の権力とはほとんど接点がないアメリカのメディアは発表報道に縛られず、多角的報道を展開していた。日本の政府がメルトダウンを否定している状況下でも、専門家に取材するなどでメルトダウンの可能性を報じ、警鐘を鳴らしていた」。
「2011年3月11日の東日本大震災の発生以降に行われた反電発・脱原発デモから、原発の再稼働反対を訴える首相官邸前デモに至るまで、新聞・テレビなどのマスメディアや政治家は、最初のうちはデモを基本的に無視していました。これは、意図的なものでした」。なぜかというと、「彼らの多くは、これらのデモを、活動家といわれるような一部の人間がやっていた従来のデモとしか捉えていなかったのです」。しかし、「首相官邸前デモを見ていただければわかるように、当初からフェイスブックやツイッターなどのソーシャルメディアを使って人が集まっていました。そこには、会社員、派遣社員、学生、フリーター、主婦、子どもを連れた親、年配の夫婦と、さまざまな世代のさまざまな立場の人たちが集まり、声をあげていたのです。大規模な組織票として集められたのではなく、最初は、インターネットの情報に個人個人で反応したり、『友達が行くなら私も行こう』というような非常に小さな繋がりで集まりました」。
「首相官邸前デモが始まった2012年3月・4月当初、東京新聞など一部の新聞を除いて、主要紙はこのデモを完全に無視しました。主催者発表で1万1000人以上が参加した2012年6月15日の大規模なデモについても、主要紙の翌日の朝刊を見ると、朝日新聞が七面で小さな記事を載せただけです」。この背景にあるのは、「さまざまな権力とそれをチェックするはずのメディアが、ときには国民に見えない暗黒回廊ともいうべきところで繋がってしまい、国民が知るべき情報が国民に伝わらないということが起きていることです」。
本書では、「2011年3月11日の東日本大震災後、政府が『緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)のデータを、すぐに公開しなかった件』も、詳細に明かされている。政府がSPEEDIのデータを迅速に公開し、住民避難に利用していたら、その後の展開はかなり違ったものになっていただろう。このデータこそ、新聞が全力を挙げて入手・発表しなければならないニュースだったのだ。
なぜ、マスコミは反原発デモやSPEEDIのことを報道しないのか。「日本の新聞、テレビ、ラジオ、そして週刊誌にとって電力会社は巨大なスポンサーであり、原子力批判はタブーだったからです」。地域独占企業である電力会社に広告宣伝費は必要ないはずなのに、1000億円にも及ぶ莫大な広告宣伝費を出して広告を打つのは、「マスコミに対する言論封圧のための工作費、としてしか説明がつきません」。しかも、その裏で、経済産業省が「原子力発電の邪魔になるような自然エネルギーを、徹底的に妨害し続けたのです。太陽光発電や風力発電が増えれば、原子力発電はいらないのではないかという声が上がることを恐れていました」。
著者は、「調査報道の基本機能は国民に代わって権力をチェックすることにある。その意味で、官邸前デモを報じるのが国民目線であるように、調査報道も国民目線だ。健全な民主主義を維持するためには強力なウォッチドッグジャーナリズム(権力監視型報道)が欠かせない。チェックを受けない権力は腐敗するのである。日本が長らく『経済一流、政治三流』といわれてきたのも、『第四の権力』であるマスコミの機能不全が背景にある」と、手厳しい。
「政治三流から脱皮する決定打は何か」という問いに対する解答は、「遠まわしに聞こえるかもしれないが、『チェックされる側』の政治家と『チェックする側』の新聞記者がインナーグループ体質と決別し、そろって国民目線を徹底することだ」と明快である。
この点から見て、希望が持てる事例も紹介されている。国民目線に立って権力と戦う東京新聞や、「アメリカで最も成功したネット新聞」と見做されているハフィントン・ポスト(ハフポスト)の具体的な取り組みが紹介されている。
本書は、原発反対、原発賛成といった立場の如何を問わず、全国民必読の重大な一冊である。