榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

子供向けの本とは思えない完成度で、中江藤樹の魅力が伝わってくる・・・【山椒読書論(456)】

【amazon 『中江藤樹』 カスタマーレビュー 2014年6月15日】 山椒読書論(456)

中江藤樹――近江聖人と慕われたまごころの教育者』(千葉ひろ子著、えんどうえみこ絵、新教育者連盟。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)は、「子供のための伝説シリーズ」の一冊であるが、内容が充実しているので大人が読んでも面白い。

「与右衛門(よえもん。藤樹)は19歳のときから25歳まで、選ばれて郡(こおり)奉行を務めます。これは、祖父吉長も務めた重要なお役です」。その後、脱藩し、故郷の村に戻った藤樹は、「(刀を売った)金で酒を仕入れ、酒屋をすることにしました。また米を買い農民に貸して、その利子を母との生活の足しにすることにしました。利子が低かったので、次の収穫までに米が無くなることも多い村人たちは大変助かりました。そして、新米が穫れると、すぐに返しにくるのでした。酒を売るというのも、やりようによっては農民を慰め助けることができるものです」。

「やがて、28歳のとき与右衛門は商売をしながら小さな塾を開きます。その塾は『人としていかに生きるべきか』を考え学ぶ塾でした。与右衛門は相手が武士であっても、職人であっても、農夫であっても、馬方であっても、どんな人でも受け入れました。そして相手に合わせて話をします。文字の読み書きの出来ない村人にも、人としていかに生きるべきかという話を分かりやすくするのでした」。

藤樹34歳、弟子入りした熊沢蕃山が23歳の時のこと。「『この度私は陽明全書という本に出会った。私の考えていたことが書いてあって真に嬉しかった』。淡々と話す師の言葉を聞きながら、蕃山は驚嘆していました。『先生は日に新たでいらっしゃる。毎日進歩しておいでなのだ。今までご著書にお書きになったことでも、間違っていたと思われればすぐに訂正なさる。学問の探求とはまさにこのようであるべきだ』。蕃山の師を敬う思いはいっそう深くなりました。そしてわが内なる本心(神)を生き生きと働かせる『心学』と、学問への厳しい姿勢を学んだのです」。

「のちに吉田松陰は藤樹と蕃山の師弟を羨んで、『妄りに人の師となってはいけない。また妄りに人を師としてはいけない。必ず真に教えるべきことがあって師となり、真に学ぶべきことがあってこそ師とすべきである。まさにこのお二人のようでありたい』としみじみと述べています。又、内村鑑三は、その著書『代表的日本人』の中で、『もし藤樹の弟子が蕃山一人だけだったとしても、蕃山を出したというだけで、藤樹はわが国最大の恩人の一人であると言えよう』と、言っています」。「後年、佐藤一斎という学者が藤樹を偲んで小川村を訪ねたとき、村へ一歩入っただけで、『ああ、ここが藤樹先生のふるさとの小川村だ』と分かったと言われています。村人は礼儀に敦く、その顔は明るく穏やかで、村の空気までが澄んでいたからです」。藤樹は、佐藤一斎、吉田松陰、内村鑑三らの心を鷲掴みにしたのである。

「こうして藤樹門下には、たくさんの弟子が育ちました。わかっているだけでも90人にのぼります。藤樹は、精魂込めて弟子たちを教えながらもこう言っています。『一人一人が自分の中の良知(りょうち)を呼び起こし、自分の力で立ち上がるしかないのだよ。たとい100人の師や友がいたとしても、心の本体を会得するのは自分で会得するほかはないのだ』」。

藤樹30歳の時、17歳で妻となった久子は「嫁いで来た頃は、顔が醜いと(藤樹の母の)市に言われて辛い思いをし、涙を流したこともありました。市にしてみれば、塾を開いて学問を教え、村の人に慕われている息子ですので、その嫁は美しい女性であってほしかったのでしょう。藤樹は幾度も母から久子と別れるように言われました。でも、久子の優しい澄んだ心や、柔和なる粘り強さをすぐに見抜き、心からいとおしいと思っていました。・・・久子は聡明な女性でしたから、良人(おっと)の気持ちがよくわかりました。少しでもよいからそんな良人の力になることが望みでした」。この夫にして、この妻あり、いい関係だなあ。

藤樹の学問についての背景説明も、簡にして要を得ている。「藤樹が少年の日に読んで感動し、志をたてるきっかけになったのは、『大学』という本でした。この『大学』とは、もとは『礼記(らいき)』の一篇だったのですが、原本に抜けているところやわかりにくいところがあるなどの理由で、宋時代(960~1279)に朱子が手を入れてまとめた『宋本(そうほん)大学』といわれるものでした。明の時代(1368~1644)に生まれた王陽明という人は、古本(こほん。原本)こそ正しい本来の姿である。その古本を勝手に変えてはならないとして、『古本大学』を用いました。藤樹も最初は『宋本大学』で学んでいたのですが、形を重んじるこの考え方は、藤樹の思い描く『流れるように自然で自由な』聖人の生き方とはどうも違うようなのです。・・・悩みつつもそのように考えを深めていた37歳の頃、藤樹は『陽明全書』という本に巡り合い、そこで王陽明の考えを知り、欣喜雀躍します。王陽明は軍人として、思想家として、政治家として、左遷されたり、死にそうな目にあいながらも、『致良知の三文字は舟を操るのに舵を得たようなものである。波の穏やかな浅瀬はおもうままであるし、台風に逆巻く波でも舵の柄を握っていれば水没溺死することはない』『良知を致せば、身分や学問に関係なく、だれでも聖人になれる』という境地に至った人です。『ああ、私の考えは間違っていなかった。ここに同じ思いの人がいる。この喜びは言葉では言い表せないほどだ』と、藤樹は、友人池田与兵への手紙でその喜びを語っています。・・・藤樹は『古本大学』に立ち返り、それを独自の『心学』によって読み込みました。学問が進むにつれて人智を越えた大いなるものの摂理を感じないではいられなくなり、もう朱子学、陽明学、仏教などの枠にはとらわれなくなっていました。ですから独特の『藤樹学』であると言う人もいます」。子供向けの本だからといって手を抜かない著者の姿勢には、本当に頭が下がる。

「藤樹は村落教師としてひっそりと教えていただけでした」が、「その頃の藤樹のことを『藤樹先生行状』では、『先生の心はさっぱりとして、わだかまりがなく、人に愛敬(あいぎょう)の心をもって接した。だから周りの者たちは、先生といると、ゆったりとくつろいで楽しくなるのだった』と、書き記しています」。藤樹の人間性が伝わってくるではないか。本書に出会えた幸せを噛み締めている私。