榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

杜甫、李白、王維などの漢詩を深く味わいたい人の必読書・・・【情熱的読書人間のないしょ話(92)】

【amazon 『新唐詩選』 カスタマーレビュー 2015年6月17日】 情熱的読書人間のないしょ話(92)

今日こそはホトトギスの姿と声を動画に収めてやるぞと張り切って、朝4時半からトッキョキョカキョクという鳴き声を辿って、近くの森から森へと探し歩きました。上空を飛ぶ1羽のホトトギスを発見できたのですが、結局、目的は果たせませんでした。森の中で、2羽のハシブトガラスが険悪な声を立てつつ枝から枝へと飛び移り、私を100mほども追い立てるではありませんか。恐らく、雛を守ろうという子育て中の夫婦ガラスの必死の行動だったのでしょう。追われ追われて森を抜けた所で、実をたくさん実らせたビワに出会いました。因みに、本日の歩数は13,054でした。

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閑話休題、折に触れて、書斎の書棚から『新唐詩選』(吉川幸次郎・三好達治著、岩波新書)を引っ張り出してきます。

「杜甫が人間の心情の美しさを歌う詩人であり、李白が人間の行為の美しさを歌う詩人であるとすれば、王維は主として自然の美しさを歌う詩人である」。たった2行で、唐を代表する3人の詩人の特徴を的確に言い表してしまうのですから、さすが吉川幸次郎です。

「(前半生は)士官ののぞみを抱きつつ焦慮する不遇の書生であり、後半生は、にわかに起った戦乱のさなかを、妻子をかかえて、中国の西南地方、四川、湖北、湖南の各地をさまよいあるく、不幸な家長であった。その詩が、憂愁に富むのは、まずその為である。しかし杜甫の詩の憂愁は、そればかりで生まれているのではない。その誠実な人格のゆえにこそ生まれる。世の中の不合理、不公正に対する誠実ないきどおりが、常にその心にあった。そうして常にしいたげられたものの友であろうとしたのである。その誠実さは、自然をうつすにあたっては、対象をつきとおす熟視となり、自然そのものと荘厳さを争う言語ともなった。『語もし人を驚かさずんば死すとも休(や)まず』と、みずからもいう。その表現はいのちがけであった。大芸術を成り立たせるものは、偉大な誠実であるということを、杜甫の詩は身をもって示すものである」。著者のこの格調の高さには痺れてしまいます。

杜甫の絶句二首「江碧鳥逾白(江<こう>は碧<みどり>にして鳥は逾<いよい>よ白く) 山青花欲然(山は青くして花は然<も>えんと欲す 今春看又過(今<こ>の春も看<ま>のあたりに又過ぐ) 何日是帰年(何の日か是<こ>れ帰る年ぞ))を、こう説明しています。「この詩、いつの作とも、はっきりきめることはできない。48歳以後、妻子をひきつれて、放浪の旅に出てからのちの、ある晩春の日の作には、相違ない。・・・去年の春も、おととしの春も、おなじようにしておのれの前を通りすぎて行った。今年の春も、又このようにして、通りすぎてゆくので、あろうか。依然として旅人であるおのれをおきざりにして。・・・ところで、このみじかい詩の底には、中国の詩に常に有力な、二つの感情が流れている。ひとつは、推移の感覚である。推移する万物のひとつとして、人間の生命も、刻々に推移し、老いに近づいて行く。悲哀の詩はそこから生まれる。歓楽の詩もまたそこから生まれる。天地の推移は悠久であるのに反し、人間の生命は有限である。・・・もうひとつは、人間は不完全であるのに対し、自然は完全であるとする感情である。自然、ことに山川草木は、常に秩序と調和にみち、適当な行為を適当な時期に示し得る。・・・人間はそうはゆかない。おのれは政治家として、おのれのエネルギーを、人々に対する善意として、はたらきかけたいのに、そののぞみはいつまでも達せられない」。

漢詩を深く味わおうとするとき、真っ先に手にすべき一冊です。