昭和天皇と初代宮内庁長官・田島道治の対話記録から分かること・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2619)】
アガパンサス(写真1、2)、ヒメヒオウギズイセン(写真3)、アカンタス(ハアザミ)・モリス(写真4、5)、サボテン(写真6~8)、アジサイ(写真9、10)が咲いています。私から読んでと、本たちが猛烈にアピールしています(写真11)。
閑話休題、『昭和天皇拝謁記――初代宮内庁長官田島道治の記録 拝謁記1 昭和24年2月~25年9月』(田島道治著、岩波書店)は、昭和天皇と田島道治(みちじ)の対話で構成された、いわば密室での記録です。とりわけ興味深いのは、昭和天皇がしばしば母親(貞明皇后)や弟たち(秩父宮、高松宮、三笠宮)に不満を漏らしていること、周囲の人間たちに対する人物評価を率直に語っていること、共産勢力の伸長や自らの戦争責任問題を気にしていること――の3点です。
昭和天皇の母親や弟たちへの不満が、『拝謁記』の随所に記録されています。例えば、1949(昭和24)年9月28日条には、<おたゝ様は女性の為か感情に勝らるゝ為か、所謂虫の居所で随分正反対の矛盾のことを仰せになる御癖がある>、1950(昭和25)年1月6日条には、<おたゝ様はそんなことはいつては悪いが、所謂虫の居所で同じことについて違つた意見を仰せになることがある>とあります。
1949年2月17日条には、<高松宮など進駐軍其他に他言されしことあり、案外信用出来ず>、<皇弟の自覚なし>、同年9月30日条には、<高松さんのことだがネー・・・高松さんはどうか皇弟といふ御自覚の上に総て御行動をして頂く様には出来ないものか>、1950年4月5日条には、<高松宮、秩父宮等のことにも言及され、皇弟たるの自覚足らぬ>とあります。
松本清張が長篇小説『神々の乱心』で鋭く指摘したとおり、秩父宮を溺愛した貞明皇后と昭和天皇との間に確執があったことを裏付ける貴重な資料と言えるでしょう。
天皇の周囲の人間たちに対する人物評価は、明快です。1949年9月7日条には、<(日本敗戦後の)自決者は大体戦争犯罪人になるのがいやで自決したとの仰せ。田中静壱と阿南(惟幾)だけは別、本庄(繁)も杉山(元)も皆戦犯となることを避けてだとの仰せあり。阿南の場合の御話あり。米内(光政)は御ほめなり、鈴木貫太郎も少し動揺したが平沼(騏一郎)を抑える為なりしかとも思ふ。豊田(副武)の無罪はアメリカの日本に対する傾向の差を表はす事大なるものだ。広田(弘毅)の死刑は気の毒、豊田の無罪と対比し、木戸(幸一)、重光(葵),東郷(茂徳)の有罪は可愛相だとの仰せ。鈴木貞一、橋本欣五郎、大島(浩)大使などの死刑でなきは不思議、白鳥(敏夫)もわるいとの仰せあり>とあります。
1949年11月5日条には、<東条(英機)は条件的にちやんちやんとやつた。近衛(文麿)は結局無責任のそしりを免れぬこととなる云々>とあります。
私が個人的に注目したのは、GHQや外国要人と天皇、側近との間の連絡役や通訳をこなし昭和天皇の信頼が厚かった寺崎英成を、天皇の反対を押し切って田島が更迭した経緯が記録されている箇所です。巻末の解説は、こう説明しています。「『拝謁記』1949年6月21日条には、前日に交わされた田島と寺崎との問答として、寺崎が<陛下は御承知かとの質問>をなし、田島が<然り>と答えると、寺崎が観念して退職を決意した経緯が記されている。この時の両者のやりとりについて、寺崎の日記には、『田島に会ふ。外ムを失へバ宮内府も失うと、ビジネスライク。総スカン也。スグ発言すと』とある。・・・寺崎更迭を認めた天皇であったが、その後、次のような本音を漏らす一幕もあった。『拝謁記』1949年10月31日条に、天皇が<MC(マッカーサー)との連絡が実は寺崎のときは非公式によくとれた><今迄寺崎のやつたことは実によかつた>と、寺崎更迭に未練を残すような発言をしている」。田島には、自身の権限強化を図ろうとする、こういう一面もあったのです。