昭和天皇は太平洋戦争の開戦にどう関わり、終戦をいつ決断したのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(203)】
散策中に、秋を実感させる小さな黄色い花をたくさん付けたキクを見かけました。カツラの見事な黄葉が陽に照り映えています。ナナカマドも赤く色づき始めています。近くの農園に寄って、歯応えがあるもぎりたてのジロウガキ(次郎柿)を求めたところ、おまけを付けてもらえたと、女房が喜んでいます。因みに、本日の歩数は11,828でした。
閑話休題、『「昭和天皇実録」にみる開戦と終戦』(半藤一利著、岩波ブックレット)は、『昭和天皇実録』と関連資料に基づき、昭和天皇が太平洋戦争の開戦にどう関わったのか、終戦をどのように決断したのかに焦点を絞った論考です。
先ず、開戦の経緯について、見ていきましょう。
1941年8月5日に、昭和天皇は東久邇宮稔彦王に不満の言葉を漏らしています。「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南部仏印進駐にあたって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であった。・・・陸軍は作戦、作戦とばかりいって、どうもほんとうのことを自分にいわないで困る」。
10月9日の『実録』には、こう記載されています。「(伏見宮博恭王が)強硬に主戦論を言上する。これに対して天皇は、結局一戦は避け難いかもしれざるも、今はその時機ではなく、なお(米国との)外交交渉により尽くすべき手段がある旨を述べられ、(開戦を決定する)御前会議の開催に反対される」。
「(11月5日の)会議では、外交交渉による日米関係の打開という9月6日の、天皇の最終的期待は踏みにじられたまま、幕を閉じた」。
ここで、渡邊白泉の「戦争が廊下の奥に立つてゐた」という俳句が引用されています。
終戦については、どうだったのでしょうか。
1942年12月11日の『実録』によれば、昭和天皇は早くも終戦のことを口にしています。「日露戦争・満州事変・支那事変を引き合いに出され、戦争を如何なる段階にて終結するかが重要であることを繰り返し仰せられる」。
1945年4月30日の『実録』には、「(東郷茂徳)外相より、ドイツ国の崩壊とその原因、及び我が国としては戦争続行が不可能である点を重視し、今後の措置を考えるべきこと等につき、詳細な奏上を受けられる。これに対し、早期終戦を希望する旨の御言葉あり」と記載されています。
8月8日のことです。「天皇ははっきりといったのである。『有利な条件を得ようとして大切な戦争終結の時機を逸してはならない』。そして、このことを鈴木(貫太郎)首相に伝えよ、と命ぜられた東郷はその足で首相官邸をたずねた。鈴木は天皇の降伏決意の言葉を聞き、その日のうちに最高戦争指導会議をひらこうとしたが、一、二の構成員の都合がわるく翌朝に延期せざるを得なかった」。
翌日、開かれた最高戦争指導会議について、天皇はこう述懐しています。「政府と軍部との意見が本土決戦に一致し、その通りに裁可しなければならなくなっては困ると心配していたが、意見不一致のまま総理大臣から自分に判断を仰いできたので、自分が決定することになって安心した」。このことからも、戦争終結は剣の刃渡りのような危険をやっとのことで乗り越えて決定されたことがよく分かります。
8月13日に、天皇は宮内大臣・石渡荘太郎に、こう述べています。「自分はいま和平を結ぼうと思って骨を折っているが、これが成功するかどうか、正直にいってわからない。だから、あるいは(貞明)皇太后様(母)にお目にかかれるのも、こんどが最後になるかもしれない。一目お会いしてお別れを申し上げたい」。天皇は終戦を実現すべく、決死の覚悟をしていたのです。
著者の、「よく知られた『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び』に象徴される天皇の言葉は、陸海軍人を教え諭すための、いや、むしろ天皇の『どうか私の決断に従ってくれ』との軍部への懇願の言葉ではなかったかと考えている」という指摘には、目から鱗が落ちました。
終戦の章は、「こうして、やっと戦争は終結した」と結ばれています。
著者の、「戦争というものは勢いにまかせて始めるのは容易であるが、これを終わらせるのはほんとうに至難なことである」という言葉が、胸に重く響く一冊です。