他書には収録されていない清張の『電筆』という名短篇・・・【情熱的読書人間のないしょ話(230)】
今日は、千葉県・流山の魅力再発見散策会に参加しました。分厚く垂れ込めた雲の下の青空、雲の切れ目から日が射し始めた瞬間が印象的でした。小林一茶が数十回も訪れた場所に建つ一茶双樹記念館の庭の紅葉したヤマモミジが、こちら側から覗けます。庭に置かれた大石の窪みの水面にヤマモミジの紅葉が映り込んでいます。紅葉したナナカマドを太陽が浮かび上がらせています。同じ町内の浅間(せんげん)神社の裏手に富士山の溶岩で造られた富士塚があり、頂上まで登ると富士山に登ったのと同じご利益があると言われたので、迷わず登ってしまいました(笑)。因みに、本日の歩数は29,682でした。
閑話休題、特定の領域で画期的な業績を上げながら、報われない人生を送った人物を書かせたら、松本清張の右に出る者はいないでしょう。その清張の短篇『電筆』の主人公は、日本速記術の創始者・田鎖綱紀ですが、彼も同じ系譜に属する人間です。
「昼は鉱山の仕事に従事し、疲れた身体を夜の勉強に当てた、うす暗い洋燈の下で、友人が寝静まってしまうのちまでも、日本語に移す工夫に耽った。しかし、これもやさしい作業ではなかった。基本文字は英字から出発している。全く文脈も字体も違う日本語にそのまま当てはめることは出来なかった」。
「綱紀が(弟子たちに)教えたのは、自分でも分っているように、完成したものではなかった。従って、教えられたほうは、ただ単に基本的な記号だけを学んだことになる。これでは実用化する速度が全くない。そこで、弟子たちは、綱紀から習った基本記号にそれぞれ工夫をし、創意を加え、独自の改良をして行ったのである。この辺から、綱紀とその弟子たちとの間には、間隙が起りはじめる。ステノフォノグラフィーは、他の学問のようにそのままの継承ではなく、個人的な創意が勝手に加わるから、その瞬間には、すでにそれぞれが創始者になるのだ。師弟の間を結ぶ靭帯は、何となく切れ易いものになってゆく。それは、弟子どもにとって早晩、師の綱紀を必要としなくなるのであった」。
「弟子の若林玵蔵、林茂淳などが中央で活躍しているのに、綱紀が徒らに地方の流浪をつづけていたのは、どうした理由であろうか。それは綱紀自身の持っている放浪性にももちろん因るであろう。しかし、すでに、綱紀の始めた速記術は時流に取り残されていたのである」。
「(死期の迫った病床で叫んだ)言葉のなかにも、時流に取り残された創始者の運命に対する彼の忿懣が現れているような気がする」。
「若林玵蔵が円朝の『牡丹燈籠』を筆記したのは有名だが、この速記文から暗示をうけた二葉亭四迷の口語体小説『浮雲』が出たことも周知の通りである」と、結ばれています。
この他書には収録されていない『電筆』を、『とっておき名短篇』(北村薫・宮部みゆき編、ちくま文庫)に収めた北村薫と宮部みゆきの眼力はさすがです。