「自分の老い」に対して、人は誰でもアマチュアだ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(248)】
平日の午後遅く訪れた千葉県・野田の清水公園は静寂に包まれていました。イロハモミジ、ドウダンツツジの紅葉をゆっくり味わうことができました。ほとんど人が通らない裏道には、柿の実が落ちています。因みに、本日の歩数は12,863でした。
閑話休題、なぜか私は橋本治という物書きが好きですので、『いつまでも若いと思うなよ』(橋本治著、新潮新書)につい手を伸ばしてしまいました。
自分の体験談を交えながら、例によって、橋本一流の取り止めのない老人論が綴られていきますが、時折、きらりと光る一節に出会えます。
「哀しいことに、人間は『自分の老い』をなかなか認められないくせに、『他人の老い』には目敏く反応するようになっている」。
「老人の嫌われ方の一つに、『お前に任せた』と言っておいて、そのくせ後になってなんだかんだ文句を付けるというのがあります。文句を付けられた方は、『だったら自分でやりゃいいじゃねェかよ』とひそかに不満をぶちまけるわけですが、なんでそういうことになるのかというと、『お前に任せた』と言うだけで、それに付随する権限を老人が譲渡しないからですね。・・・『任せる』と言うのだったら、その分の権限を譲渡しなければならない。権限を譲渡して、責任も押し付ける。押し付けたんだから、もうこっちの知ったこっちゃない。遠巻きにして文句を言っていると『権限を譲渡しない老人』になってしまうから、『俺はもう知らない』と言う。『自分は年寄りだ』と認めてしまうと、責任がなくなって楽になり、それと同時に世代交代が促進出来るから、いいことずくめです。バトンタッチをした相手がその権限と責任を行使出来なくても、こっちのせいではない。『お前達の現実なんだから、お前達でなんとかしろ』ですむ」。橋本と同世代の私には、この感じ、よく分かります。
「『年を取ると頑張らなくてすむからお得です』なんてことを言うと、『余裕ぶっこいてんじゃねェよ』とか言われそうですが、私に余裕なんかありません。貯えなんてものもありません。支払わなければいけないローンの残高は数千万円あって、おまけに私は完治のない難病に罹っている病人です。余裕なんかあるはずがありません」。この後は、ローンの話や病気の話が続きますが、不思議にじめじめした暗さがありません。これも、この著者の魅力の一つです。「正式な病名は『顕微鏡的多発血管炎』というもので、うっかり『的』の字の位置を間違えると『顕微鏡多発的血管炎』になって、『体の中から顕微鏡がいっぱい生えて来る病気』のようになってしまいますが、そうではなくて『毛細血管が炎症を起こしてただれる』という免疫系の病気なんだそうです。『顕微鏡で見なきゃ分かんないような細い血管が炎症を起こす』なんて言われたって、そんなものがイメージ出来るわけはありません。『白血球が多いのは過剰免疫で――』なんてことを言われてもピンと来ません。自分で言うのもなんですが、私には、年を取る前から『無駄な知的好奇心』というものがないのです」。「顕微鏡多発的血管炎」の件(くだり)では、思わず声を立てて笑い、脇の女房から何事かと心配そうな顔を向けられてしまいました。
「『もう年だから』ということになると、どうしても悲観的なニュアンスが漂って、人としてはあまり受け入れたくないことのような気がしますが、私にはあまり悲観的な感じがしません。体はフラフラのヨボヨボで疲れやすく、すぐにダウンしちゃうけれど、既に60を過ぎていたので、『もう年だ』と思った方が心理的に楽だったのです」。この捉え方も、共感できます。
「『自分の老い』に対して、人は誰でもアマチュアだ」という言葉には、思わず頷いてしまいました。「『老人というのはどうやって生きるものか?』を考えながら手探りで進むしかなくて、誰もが『自分の老い』に関してはアマチュアだというのは、そういうことなんだろうと思います」。