ここ数年の分子人類学の成果を踏まえた日本人起源論・・・【情熱的読書人間のないしょ話(269)】
散策中に、暖かい正月を象徴するかのように、もうクルメツツジが濃い桃色の花を咲かせているのを見つけました。昼食で寄った和食の店では、正月らしく琴の音が静かに流れていました。女房は、ちゃっかりパン屋に寄り道しています。因みに、本日の歩数は12,471でした。
閑話休題、『DNAで語る 日本人起源論』(篠田謙一著、岩波現代全書)は、新たな古人骨の発掘、DNA分析技術の革新による、ここ数年の分子人類学の急激な進展を踏まえた日本人起源論です。
先ず、2010年に相次いで発表された分子生物学の常識を一変させる研究が紹介されています。スヴェンテ・ペーボらによる現生人類とネアンデルタール人が交雑していたことを突き止めた研究と、シベリア西部で発掘されたデニソワ人について、約80万4000年前にデニソワ人とネアンデルタール人の共通祖先が現生人類と分岐し、それから後の約64万年前にネアンデルタール人とデニソワ人が分岐したことを明らかにした研究です。「もし、世界に拡散した現生人類と先行人類の間の交雑が普遍的な現象であれば、私たちの核ゲノムの中には、それぞれの地域の先行人類のもっていた遺伝子が受け継がれていることになります」。このことは、定説とされてきた現生人類のアフリカ単一起源説が一部修正を余儀なくされ、誤りとされてきた多地域進化説の一部復活に道を開くことを意味します。
次に、「出アフリカ後の人類の世界展開は、DNAの系統図が教えるシナリオと実際の考古遺跡や人骨に関する知見をあわせて考察することになります」として、現生人類のアジアへの経路が考察されていきます。続いて、東アジア集団の移動が解説されていきます。
いよいよ、日本列島への移動にスポットが当てられますが、叩き台として、定説となっている「二重構造説」が紹介されています。「南方起源の原アジア人(旧石器人)が南方から日本列島に進入し、縄文人になった。一方、大陸を北上した集団は寒冷地適応を受けて姿形を変え、北東アジア人となる。彼らがやがて稲作農耕を携えて日本列島に入ってくる。これが渡来系弥生人で、現代日本人は原日本人である縄文人と、この渡来系弥生人の混血によって形成される。ただし、弥生農耕の影響を受けなかった北海道と沖縄では、縄文人の直系の子孫が生活することになった。このように現代日本人に二層性を認めるのが、埴原和郎の二重構造説である」。
「現在では考古学的な証拠から、4万年ほど前の後期旧石器時代には現生人類が日本列島に居住していたことが認められています。・・・大陸との地理的な関係から、旧石器時代の日本列島に到達するには3つの経路が想定されます」。①南方からの琉球列島を経由するルート、②朝鮮半島を経由するルート、③シベリアから北海道を通って日本へ至るルート――の3つです。
近年の研究結果は、二重構造説に否定的だというのです。2008年に理研・鎌谷直之らが、日本全国の現代日本人を対象にした大規模なDNA分析データに基づく画期的な研究成果を発表しました。「日本列島集団は中国北京の集団とは明瞭に区別され、加えて少なくとも遺伝的に区別される本州と琉球の2つの地域集団から構成されていることが明らかになっています」。
本土(本州、四国、九州)日本人の成立については、このように述べられています。「ホモ・サピエンスが世界に展開した後期旧石器時代には、海水面の低下によって本土日本の3つの島は基本的には一体化したと考えられていますから、いったん本土日本に到達した人たちは、陸路でこれらの地域に進出することができたはずです」。「縄文人は旧石器時代にさかのぼる周辺の南北双方の地域から流入した人びとが、列島の内部で混合することによって誕生したと想定できます。人骨の形態学的な研究をしている片山一道さんはかねてから、縄文人はどこからか来たのではなく、列島内で縄文人になったのだと主張しています。私たちは、これまで縄文人の起源を求めて日本の周辺の各地で人骨の形態を調査してきました。・・・そもそも縄文人は由来の異なる人びとの集合によって列島内で誕生したと考えれば、外部に形態の似た集団を探すことに意味はないことになります。現時点での縄文人のDNAデータも、このシナリオを支持しているように思えます」。
「水田耕作農耕を生業とした集団が、朝鮮半島から北部九州や山口県を中心とした地域に進入し、本土日本は縄文から弥生時代に移行することになります。彼らは稲作とともに金属器の加工技術をもつ、当時の最先端の農業と工業の技術を備えた人びとでした。弥生時代の開始期は放射性炭素年代測定法の進歩によって、従来言われていた紀元前3世紀よりも数百年さかのぼるというのが最近の定説になっています」。「本土日本人に関しては基層集団の縄文人と渡来系弥生人の混血によって、その遺伝的な枠組みが作られたと考えてよいように思えます。・・・在地の集団と稲作農耕を主体とする渡来系集団との混合は北部九州地域からスタートして本州や九州、四国に拡散していったと考えられますが、そのプロセスがどのようなものだったのかはまったくわかっていません。この部分のシナリオが完成しなければ、本土日本の集団の形成を記述したことにはならないと思います」。著者が言うように、今後の研究のさらなる進展が待たれます。