榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

突然、離婚を迫られたアガサ・クリスティの失踪事件が書かせた作品・・・【情熱的読書人間のないしょ話(700)】

【amazon 『春にして君を離れ』 カスタマーレビュー 2017年3月17日】 情熱的読書人間のないしょ話(700)

アガサ・クリスティといえば、ある程度、年齢を重ねてからの写真を目にすることが多いのですが、これは若い時分の写真です。 


                 
「ミステリの女王」の道を順調に歩み始めていたアガサ・クリスティを、思いもかけない出来事が襲います。最愛の母を亡くし、哀しみに暮れていたアガサは、10年以上も連れ添った夫から、突然、愛人がいると告げられ、離婚を迫られたのです。娘を寝かしつけたアガサは、誰にも、何も告げず、失踪してしまいます。

アガサが生涯、真相を語らなかったため、謎の失踪事件として今に語り継がれている事件ですが、実は、この時の彼女の心の内を窺うことのできる作品があるのです。

春にして君を離れ』(アガサ・クリスティ著、中村妙子訳、ハヤカワ文庫)がそれですが、アガサの数少ないミステリでない作品の一つです。

ヒロインのジョーン・スカダモアは、成人した3人の子の母ですが、夫・ロドニーの目には「物事に打ちこみ、万事をてきぱきとかたづける有能さ。首筋の線の若々しさ。皺一つない美しい顔。快活で、自信にみち、愛情に輝いている」と映っています。

ジョーンは、バグダードに住む末娘を見舞うため、周囲の反対を押し切って英国を旅立ちます。この6週間の旅行中に、彼女は心を激しく揺さぶられるような経験をします。本書は、この経験の息詰まるような描写の連続で、本当に息苦しさを覚えるほどです。そして、最終段階に至って、読者は強烈な逆転パンチを食らうことになります。このストーリー展開の巧みさは、さすが、「ミステリの女王」だけのことはあります。

ジョーンの前に登場するのが、ジョーンとは何もかも正反対のレスリー・シャーストンという女性です。「後ろめたげな目ざしの前科者の夫をもったレスリー――酒に溺れている夫との貧しい生活、病気、そして死。・・・レスリーはちっともみじめでなんかなかった。沼地でも、耕地でも、川の中でも、構わず歩いて目的地に到達しようと心を決めている人のように、幻滅にも貧乏にもめげずに、彼女は歩んだ。快活に、もどかしげに・・・」。「彼は改めて彼女(レスリー)の勇気に感嘆したのだった。それは自分のための勇気以上のもの、愛する者のための勇気であった」。

私たちは、この作品から人生を歩む上で必要なことを学ぶことができます。●愛とは何か、夫婦とは何か、勇気とは何か、●価値観を共有するとはどういうことか、●人間が真に変化するとはどういうことか――の3つです。

アガサ・クリスティは類い稀なミステリ作家であるのみならず、人間観察、自己省察の達人でもあるのです。