稀代の名編集長・花森安治の息吹が直に感じられる一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(585)】
散策中に、小さな橙色の実が鈴生りのタチバナモドキを見かけました。ドウダンツツジの葉が真っ赤に色づいています。農作業中の人に作物を尋ねると、手を休め、笑顔で、ネギとブロッコリーと教えてくれました。収穫中の人は、サツマイモ(アンノウイモ<安納芋>という品種)とサトイモを見せてくれました。干し柿用のカキが吊るされています。アケビがたくさん実っています。切り取られ、積まれた枝が秋を感じさせます。因みに、本日の歩数は10,536でした。
閑話休題、『ぼくの花森安治』(二井康雄著、CCCメディアハウス)で、「暮しの手帖」の名編集長として鳴らした花森安治の素顔に触れることができました。それもそのはず、著者は新入社員として暮しの手帖社に入社後、花森が亡くなるまでの9年間、部下として謦咳に接した人物だからです。
入社して3年目の著者が初めて原稿を書いた時、花森からこう言われます。「いいか、君たちがペンを磨かず、うじゃじゃけてなまけているあいだに、権力のほうは、剣を磨いているぞ。なまけているから、こんなつまらない原稿が出てくるんだ。ぼくたちはジャーナリストだ。世の中を動かすんだ。その気概を忘れるな」。もちろん、著者の原稿はボツになりました。
「とにかく、花森さんは、仕事の上では、よく怒った。花森さんは、プランをたて、取材をし、写真を撮り、原稿を書く。レイアウトをして、タイトルや見出しをつけ、書き文字を書き、カットも描く。雑誌の表紙を描き、新聞広告や、中吊りの広告を作る。単行本の装釘も一流。編集部員の書いた原稿を直し、校正までする。あまりにも、いろいろな能力のある人である。ほかの人とは、歴然とした違いである。命じておいて、うまくいかなければ、当然のように怒る。しかし、年がら年中、怒っているばかりではない。ふだんから、花森さんは、言葉の遊びが好きだった。機嫌のいい時は、しゃればかり言う。部員のくだらないしゃれを聞いては、いまのは何点とか、採点する。あまりいい点数はもらえない。それでも、みんな、楽しそうに笑い、花森さんもよく笑った」。花森の八面六臂の仕事ぶりが目に浮かびます。
「(著者の)プランは採用になったが、『文章がダメだなあ』と(花森が)ため息をつく。突然、『原稿用紙と鉛筆を持って、ここに来い』と言う。『字詰めは14字、言う通りに書け』。ゆっくり、話し始める。書いていく。与えられた行数ピタリ、原稿になっていた」。これは、もう神業と言うべきでしょう。
「たまに友人たちと話すことがあった。『花森さんは、ほんとうにスカート、はいているの?』、『どんな人?』と聞かれる。少なくとも、ぼくは、ざっと9年ほど、同じ場所にいたが、スカート姿などは、見たことがない。『見たことはないなあ』、『とにかく、怖い人』と、答えていた。スカートをはいて女装していた、戦争に協力した、などと、世間でいろいろな噂が飛び交っていることについて、花森さんは、『勝手に思わせておけばいい。いちいち、説明はしない』といった意味のことを言った。これでいいのである。勝手に、いろいろと、噂していればいい。答えは、花森さんが作った『暮しの手帖』のなかに、すべて、あるのだから」。文字どおり、花森=「暮しの手帖」だったのです。
「暮しの手帖」第100号の後書きに、花森はこう記しています。「1号から100号まで、どの号も、ぼく自身も取材し、写真を撮り、原稿を書き、レイアウトをやり、カットを画き、校正をしてきたこと、それが編集者としてのぼくの、なによりの生き甲斐であり、よろこびであり、誇りである。・・・ぼくは、死ぬ瞬間まで<編集者>でありたい、とねがっています。その瞬間まで、取材し写真を撮り原稿を書き校正のペンで指を赤く汚している、現役の編集者でいたいのです」。花森は、実際、亡くなる直前まで、原稿の青ペン、校正の赤ペンを握っていたのです。
1969年、第2世紀第2号(通算では第102号)に、花森は「国をまもるということ」を書いています。「こんどの戦争で、これだけひどい目にあいながら、また、祖国を愛せよ、<くに>を守れ、といわれて、その気になるだろうか。その気になるかもしれない。ならないかもしれない。ここで、<くに>というのは、具体的にいうと、政府であり、国会である。<くに>に、政府や国会にいいたい。<くに>を守らせるために、どれだけ国民をひどい目にあわせたか、それを、忘れないでほしい。・・・なんのために<くに>を守らなければならないのか、なんのために、ぼくたちは、じぶんや愛する者の生命まで犠牲にしなければならないのか」。今から47年前に書かれた文章であるが、今こそ玩味すべき文章だと、著者が強調しています。
稀代の名編集長・花森の息吹が直に感じられる一冊です。